コラム」カテゴリーアーカイブ

薄暮のロードマップ― 書評+α「患者から早く死なせてほしいと言われたらどうしますか?」

 人は誰でも死ぬ。それはいわば卒業のようなものであり、学校に永遠にいられないのと同じく、果てしなく続くように思える日常生活の先に、必ず死というプロセスがある。健康なとき、私たちは普段の生活の中でそれを意識することはほとんどない。しかし治癒が難しい病や加齢などで、必ずそのときは来るのであり、しかもその人にとって必ず初めてであり、そして1度限りの体験である。周囲の家族も含めて、多くの場合不安となり、ただただ困惑することが、ある意味自然な反応であると思う。
 著者は病院でのホスピス勤務を経て現在在宅診療を専門に行っている緩和ケア医であり、数多い看取りを行ってきた、いわば「終末のエキスパート」である。医師であれば一般の生活者よりは、多くの死に立ち会う。多くの科では未だそれは「敗北」、もしくは仕方なく受け入れるものであるが、著者は、いずれやってくる生命の自然な過程としてその時間に寄り添う。
続きを読む

病気と健康と医療を巡る周辺

      

    医療と前よりは距離をとっている今、色々思うところがあって、少しまとめたいと思う。

    まず、病気とは何なのか、よくわからなくなってきた。精神科外来には、いわゆる診断基準で定義された「病気」とは言えない相談がよく持ち込まれる。それらはその時点では「病気」というより「悩み」や「心配」だったりし、それは診療所で健康保険を使って診るべきものなのかどうなのか、などと考えたりする。ただそれが「病気」に進展しない、と断言もできず、なんとなく相談に乗りつつ、引っ張ったりもする。しかしそれが良く作用して、来た人が幸せになるかというと、かえって医療という枠組みへの依存につながってしまったこともあったと思う。私自身は薬をたくさん出すのは好まないが、昨今の多剤併用の問題も、本来は医療で診られない問題を医療で扱おうと努力するとそうなってしまうのだと思う。中途半端な「医療」や「支援」はかえって毒だなあと今では思う。そういう意味で、反精神医学的な思想には、一部ではあるが共感もする。「悩みは薬では治らないし、病院に来ても医者が治せるはずもない」。よく考えてみれば当たり前のことだ。 

    続きを読む

    『私』というコンセプト

     「病気は生きられなかった人生の現れである」。 ドイツに行ったときに、ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカーの言葉として聴いて、心に残っている言葉だ。原典を探しているが見つからないので、本当に彼の言葉どうかは不明なのだが、ヴァイツゼッカーは、「医療人間学」を提唱し、病む人の人生の歴史と病気のあらわれの関係を考察し続けた人である。彼は、人生において困難な局面で、病気があらわれることで、何か別のものを得たり、そのことで救われたりすることについて考察している。 人生にはいつも多くの可能性があり、節目節目で決断を迫られる。何かを選択するたびに、かなえられたかもしれない可能性を捨てていく。ほんとうにこの選択は正しいのか、何度も自問自答し、断腸の思いで何かを選ぶこともあれば、何気なく決めてしまうこともある。そして後になってこの決断は自分にとって、ほんとうに正しかったのだろうかと悩み、抑うつ的になる人もいる。 続きを読む

    うしなったもの。

    自分自身がうしなったもの。それらのいくつかは数えることができる。声と歌。色と絵。動きと踊り。音と音楽。植物や動物に触れることと、自然の中の時間。でもむしろ数えられるもののほうがずっと少なく、ほとんどはうしなったという感覚が漠然とあるだけで、何をうしなったのかすらよくわからなくなっている。それらはずっと内部でわたしを支えてきたけれど、いつしかそれらとの時間を捨てなければ、日々の義務をこなしていけないようになっていた。

     日々の人々の要請は、わたし自身の内面の声よりもずっと大きい音でわたしを駆り立てた。助けてください。これをやりなさい。あなたの利益にもなります。私がこんなに苦しんでいるのに、あなたは私を見棄てるのですか?結果としてわたしは、わたしにできる最大限の無私として、わたし自身を棄て、わたし自身の思考と感情と意志を知識とスキルの習得とに振り向け、そうしてわたしは自分自身の内面の時間の流れから切り離された。

     ミヒャエル・エンデの短編集「鏡のなかの鏡〜迷宮〜」に、翼を得て迷宮から恋人と飛び立とうとする若者の話がある。 翼を得た若者には試験が課せられる。漁のための長い網をまとって、夕方まで恋人に会わずに街を歩くこと。簡単な課題だった。「お前さんはもうすぐここから出ていくんだろう?では俺の重い荷物を少しだけ持っていってくれ」と次々に迷宮の住人が網にがらくたをからませていく。「いいですよ」と若者は気前良く答える。幸福な者にはそれくらい、なんでもない。不幸に対応するのは、幸福な者の義務だ。若者は重たくなる網を引きずって歩き続ける。夕方になり、試験の終了時間。遠くで数人の若者に「試験に合格した」と天使が語る声が聴こえる。「ぼくをお忘れじゃありませんか!」と彼は叫ぶ。その瞬間に彼は悟る。妥協しないことが自分の課題だったのだ。彼は試験に合格しなかった。そして彼は永遠に迷宮の住人となったのである。

     思うに援助職というのは似たようなもので、それを職業として選んだ者への義務および自身の権利として、「被援助者」は重荷を預けていく。しかし、ほんとうは、被援助者というまなざしを向けないこと、その人が重くまとってしまったしがらみは見据えずに、その人の内部に隠れている力だけを見つめることが、ほんとうの援助なのではないだろうか。妥協しないこと、とはそういうことだと思う。ひとの重荷を代わりに背負うことではない。
     無数の外的な些末な要請にこまごまと答えるうちに、わたしは自分自身の源泉への道をうしなっていった。わたし自身はもうしばらくは、声を出すことができない。このまま動き続ければそれは魂のない機械の作業でしかなく、それがひとを癒すとはとても思えない。だからしばらくは、自分の内面の時間の流れに戻ろうと思う。あとは、神の知るところである。

    だるい人

    繰り返し見る夢がある。また高校生に戻っていて、朝学校に行くのがだるく、午後になってから重い足を引きずって向かう。もうさすがに授業は理解できなくなっているだろうと思いながら、坂を登る。途中で引き返したりもする。こんなに出席していないのだから、進級すらやばいのかもしれない、と思い、取り残される恐怖感がこみ上げてくる。
    目が覚めた後にもその恐怖感が残存していて、「学校へ行かなきゃ」としばし考えてから、ああ、もう学生じゃない、学校へ行かなくていいんだ、と気がついて、心から安堵する。

    同じように、受験勉強している夢というのも観る。具体的な場面というより、なんとはなしに、受験に向けて追い立てられている夢である。起きてから、「試験勉強をしなくていいのか?」と考えてから、もう受けるべき試験など抱えていないことを思い出し、やはり安堵する。

    実際の過去の自分は、ほとんど休まず学校に通い、勉強も理解していないことがばれない程度には暗記で乗り切り、夢のような事態は現実には全くなかった。
    しかし、高校で何をしていたのかというと、記憶が薄い。友人たちと同人誌を書いたり、ロックを聴いて、御茶ノ水あたりを徘徊していたことなど、部分的には鮮烈に記憶しているが、「学校生活」という茫洋とした包括的な時間のことはあんまり覚えていない。

    自分としては、これは慢性的な軽い解離だと思っている。

    解離という現象は、つまらない授業の最中の白昼夢みたいなごく軽いものから、行動の記憶を全くなくしてしまうような病的なものまである。しかし基本的に、周囲の環境と、自分自身の真の感情や希望とのギャップがあり過ぎて、両方の時空間から自分の存在を切り離してしまう現象だと思っている。

    私の中に、学校はつまらないし何もかもだるいと感じている自分自身の分身がいた。しかしその時はそういうだるい人を排除して、「まあまあ社会的に妥当な感じ」で適応することを選んだ。
    繰り返し観る夢、これはその時並行して確かに存在しながら、生きなかった自分自身である。
    不惑を目前にして、その時排除された自分の中の「だるい人」が20年越しの反抗期を迎えて、いま夢の中からだるさを訴えている。それどころか、現実にも侵食しつつある。

    だるい人は最初からだるかったわけではなく、環境がつまらないからだるくなったのであり、その環境から出ようとせず、甘んじて過ごしていた私自身に抗議している。
    自分自身の声やニーズを聞かないでいると、現実に対してだんだん無関心になっていく。

    将来の進路に直接関わる試験のプレッシャーから解放されてからは、記憶力は年齢とともに、坂を転げるように落ちている。
    年をとると、若い頃より記憶には負荷がかかる。低下していく記憶力を動員したいほど、自分自身にとって大事な出来事が特にないと、人は何かを覚えない。
    これは認知症のメタファーなのではないかと思っている。老年期の健忘は若いときの解離の裏返しのメカニズムに思える。

    若い頃に戻りたいと思う人もいるのだろうが、私自身は少なくともどの学校時代にも戻りたくない。大人でいることは何だかんだで、保護下で不自由な子どもよりはずっと自由だ。
    学校時代には聞けなかった、だるい女子高校生の抗議を、いま黙って聞いている。大人になった自分がその声を聴くことが自分自身に対する責任でもあると思うし、後悔が病気の遠因になることを臨床でもたくさん診てきた。もう遅いのかもしれない、しかし過ちを正すのに遅すぎることはない。その二つの間を揺れ動きながら、今日も東京を徘徊している。