自分自身がうしなったもの。それらのいくつかは数えることができる。声と歌。色と絵。動きと踊り。音と音楽。植物や動物に触れることと、自然の中の時間。でもむしろ数えられるもののほうがずっと少なく、ほとんどはうしなったという感覚が漠然とあるだけで、何をうしなったのかすらよくわからなくなっている。それらはずっと内部でわたしを支えてきたけれど、いつしかそれらとの時間を捨てなければ、日々の義務をこなしていけないようになっていた。
日々の人々の要請は、わたし自身の内面の声よりもずっと大きい音でわたしを駆り立てた。助けてください。これをやりなさい。あなたの利益にもなります。私がこんなに苦しんでいるのに、あなたは私を見棄てるのですか?結果としてわたしは、わたしにできる最大限の無私として、わたし自身を棄て、わたし自身の思考と感情と意志を知識とスキルの習得とに振り向け、そうしてわたしは自分自身の内面の時間の流れから切り離された。
ミヒャエル・エンデの短編集「鏡のなかの鏡〜迷宮〜」に、翼を得て迷宮から恋人と飛び立とうとする若者の話がある。 翼を得た若者には試験が課せられる。漁のための長い網をまとって、夕方まで恋人に会わずに街を歩くこと。簡単な課題だった。「お前さんはもうすぐここから出ていくんだろう?では俺の重い荷物を少しだけ持っていってくれ」と次々に迷宮の住人が網にがらくたをからませていく。「いいですよ」と若者は気前良く答える。幸福な者にはそれくらい、なんでもない。不幸に対応するのは、幸福な者の義務だ。若者は重たくなる網を引きずって歩き続ける。夕方になり、試験の終了時間。遠くで数人の若者に「試験に合格した」と天使が語る声が聴こえる。「ぼくをお忘れじゃありませんか!」と彼は叫ぶ。その瞬間に彼は悟る。妥協しないことが自分の課題だったのだ。彼は試験に合格しなかった。そして彼は永遠に迷宮の住人となったのである。
思うに援助職というのは似たようなもので、それを職業として選んだ者への義務および自身の権利として、「被援助者」は重荷を預けていく。しかし、ほんとうは、被援助者というまなざしを向けないこと、その人が重くまとってしまったしがらみは見据えずに、その人の内部に隠れている力だけを見つめることが、ほんとうの援助なのではないだろうか。妥協しないこと、とはそういうことだと思う。ひとの重荷を代わりに背負うことではない。
無数の外的な些末な要請にこまごまと答えるうちに、わたしは自分自身の源泉への道をうしなっていった。わたし自身はもうしばらくは、声を出すことができない。このまま動き続ければそれは魂のない機械の作業でしかなく、それがひとを癒すとはとても思えない。だからしばらくは、自分の内面の時間の流れに戻ろうと思う。あとは、神の知るところである。