ドキュメンタリー映画「女を修理する男」を観た。
コンゴの産婦人科医、デニス・ムクウェゲ氏のことは2018年のノーベル平和賞を受賞で初めて知った。コンゴ東部のルワンダとの国境地域には今も武装勢力が潜んでおり、活動資金とするための鉱物資源を得るため、地元の人々、特に女性や子どもを暴行することが問題となっている。ムクウェゲ氏はコンゴ東部キヴ州の産婦人科医であり、この暴力によって心身を破壊された5万人の患者を治療した。
女性器や直腸などその周囲の内臓器官が、暴行で破壊され、瘻孔ができると、性機能の問題だけでなく排泄もコントロールできなくなり、それ以前に消化管からの感染を起こすと生命の危険なある。そのような状態の治療は、先進国の整った医療環境であっても並大抵のことではない。先進国よりは医療環境も良くないコンゴの病院で、日々手術を行い、そして女性たちの心身を救っているということに驚きを覚える。機能の再建どころか生命を救うことも、日々戦いだろうと想像した。しかも紛争は未だ終結していないし、彼自身の生命すら狙われ続けている。
人間の悪意と暴力の痕に日々接するということの壮絶さ、そしてそういう活動を女性でなく男性の医師が行っているということ、その人とはどのような人なのか、知りたいと思った。
この映画は映画館での上映がなく、ノーベル平和賞受賞後も単発で上映会が行われるだけで、なかなか見る機会がなかったのだけれど、10/18の上智大学での上映会で観ることができた。
アフリカ中央部に位置しかつてはベルギーの植民地だったコンゴ民主共和国は、レアメタルを豊富に産出し、特にコルタンというニオブとタンタルの化合物の鉱石の争奪戦が起きている。タンタルはスマートフォンやパソコンなどのコンデンサーに使われており、近年急速に受容が高まっている。
コンゴは1996年から民族対立と鉱物資源獲得を巡って政権と複数の武装勢力による紛争が続いていて、ルワンダやウガンダなど周辺諸国の軍事介入や他国の武装勢力も参戦して複雑な様相を呈している。武装勢力は鉱山部の村落の住民を虐殺したり住民女性に対し性暴力を行い、その地域を支配して、レアメタルを採掘して武器購入の資金にしている。コンゴの国土は「扉のない宝石店」であり、武装勢力によって略奪し放題の状態になっている。
性暴力は、ここではあまりにも凄惨なのでその内容は詳しくは書かないが、ムクウェゲ氏いわく、性欲からなされるのでは全くない。その地域の住民の尊厳を打ちのめし、抵抗する気力をなくさせることのできる、安価な「武器」なのである。その対象は若い女性の場合もあれば、高齢女性、幼児や乳児にまで至る。「こんなひどいことがなぜできるのか」とムクウェゲ氏は言う。
女は体だけでなく心の一番繊細な部分や蹂躙され、男は自分の妻や母や子、集落の女性を守れなかった屈辱で無気力化する。
そして、女性は蹂躙されたあと、集落にはいられなくなるのである。家族が虐殺されてしまって身寄りがなくなる場合だけでなく、性暴力を受けたことで「汚れた存在」となるからだ。
このあたりは、慰安婦問題と似ている気がした。辱めを受けた女性は、傷ついた者としてケアや配慮を受けるのではなく、むしろ穢れとしてそのコミュニティから追放されてしまう。
こうして行き場所のない、そのような女性たちがムクウェゲ氏の働く病院に集まる。何十人もの女性が、心身の痛みに耐えながら、簡素なベッドに無表情に横たわる。
日々そのような暴力の痕に対して外科手術を行うこともすごいと思うけれども、ムクウェゲ氏の行ったこと、それは治療だけでなく、治療が終了し、生き延びることができたが帰る場所のない女性たちの施設、通称「ワン・ストップ・センター」を作ったことである。女性たちは自分の体験を1回だけ語ればよい。
学校の教室のような縦長の部屋で、長机と椅子を並べて、女性たちがムクウェゲ氏の講義を受ける。ひとりひとりに、自分がなぜここに来たのかを語ってもらうが、泣き出して語れなくなる女性もいる。そういう女性たちひとりひとりに、ムクウェゲ氏は「泣くことで怒りを発散できます。真の純潔は心の中にある。過去にどんな傷を受けても、あなたがたの美しさまで失われてはいないのです」と語りかける。前の黒板には、Identitèと、白いチョークで書かれていた。
そういう施設で、女性たちは講義やグループワークを受け、自分たちの体験を語り、かご編みや裁縫、農作物を作ることを習得したり、名誉と純潔を回復するために学習する。ある女性は、自分はたったひとりになったが、ここで少しずつ貯めたお金が300ドルになったので、小さな土地を買い小さな家を建てた。作物を作り、暮らしている、自分には行くところがない、しかしムクウェゲ氏のおかげで「自分も人間なのだと思うことができた」と語った。
そしてキヴ州にムクウェゲ氏が作ったもうひとつのもの、それは2つの法律事務所だった。
「暴力を行った者を探し出して殺すのではなく、罪をつぐなうべきだ」ととムクウェゲ氏は語る。「法治国家になること、それが必要です」と。
女性たちに性暴力を行った者たちが、正しく裁かれることは少ない。そもそも裁判所があまり機能していない上、訴えても女性や子どもの証言は取り上げられない。また、武装勢力の扱いに手を焼いたコンゴ政府や地方自治体は、武装解除に応じさせて、何事もなかったように住民として受け入れる施策もしているようで、そういう「手打ち式」の様子が映画の中にも出てくる。その場合、その罪を裁くことに、政府は積極的ではない。
そういう状況の中で、ムクウェゲ氏は「罪が裁かれ、償われる」ことにこだわる。法律事務所の弁護士は女性で、女性や少女たちの告発を聞き取って回り、こつこつと訴追を行う。集団での裁判の様子も出てくるが、罪を認める者もいれば、「自分は誓ってやっていない」と嘯く軍服の男もいる。それに対し、被害を受けた少女は男から見えないように姿を隠された状態で、声だけで、自分がどんなことをされたか証言した。
地域に設立された女性協会の集まりで、被害を受けた女性たちは、声高く怒りや悲しみを語り、互いを励まし、自分たちの人権について主張する。自治体の要職の男性たちも交えた決起集会のような会合で、女性たちは「なぜあなたがたは私たちを守らないのか」と訴え、男性たちに自覚を促す。「私たちの活動に賛同する人は挙手を!」と語りかけると、ムクウェゲ氏が手を上げ、揃いの活動Tシャツを着た男性たちはある者は進んで真っ先に、ある者は気圧されたように、挙手していく。
映画中に出てくるコンゴ・キヴ州の様子は、鮮烈だ。もちろん先進国のような現代的な建物などはない。しかし、ムクウェゲ氏の勤務するパンジ病院では、簡素な建物の中で手術室だけは腹腔鏡もあり、ベルギーからのスタッフも治療や手術に加わりながら、カンファレンスをしていた。
決して裕福ではない地域の女性たちは、鮮やかな色の服を纏い、生命力に満ちて、自分たちの人権について強い調子で訴える。20年以上長らく紛争が続き、暴力が日常を脅かし続けている場所であっても、人は暴力に慣れることはなく、また慣れるべきではないこと。20年以上続く紛争、かつ先進国の利権も絡み武力と暴力が跋扈する、そういう場所であっても、自分たちに尊厳はあることを、生きて示し続ける女性たち。女性たちがそうあるように、励ますために命をかけて行為し続けるムクウェゲ氏と支援者たち。
翻って日本という場所を考えると、コンゴほど酷い暴力が行われている状況はほぼないにしろそれは暴力の程度や頻度のことであって、女性の心身の尊厳が、先進国で少なくとも理念としてはそうべきである程度に尊重されているかというと、そうは思えない。来日でシンポジウムを行ったムクウェゲ氏に対して伊藤詩織さんの事件を例に出して質問を行った人がいたが、彼は「それこそが世界で起きていることです」と答えていた。女性はいつも機嫌よく、愛想よく場の雰囲気をよくして、優しくて暖かで、子どもの世話をし親の介護をし、多少体を触られたとしてもそれは「あなたが魅力的だから」なのであるから、許し、笑顔で「いなす」こと。そんな特性が、当然として求められ、疑うことすらない。私自身も、自分でも驚いてしまうが、かなり最近まで、「そうあるのが当然だ」と思っていたし、「そうしなければ生き延びられない」と無意識に感じていたのである。出自の文化の要素は大きいと思うものの、男女雇用機会均等法以後に大学まで出て、DVの被害者に接してもそうなのである。
生存戦略としての愛想や恭順、暖かさ、優しさ、逆らわないこと。そういう「女は優しく許し、受け入れる」べきという掟は私たちの文化の中では多くの場所で、そもそも疑うことすらなく私たちの中に深く内在化されており、生き延びるために女性たちはそれを受け入れている。それは、多くのDVや児童虐待の記事を読めば、日々ごくありふれている。耐えがたくなった者のうちまだ健康な者は逃げることを選択できるが、生き延びるために病むか、暴力を行う側に回る者もいる。
ここでは生物学的な女性とは限らず、「女性的な役割を負わされる」人であることを私はイメージしている。気遣いのできる、非力な男性が家族や関係の中で「女性的な」役割を負わされることはよくある。
女性と男性が違う形態と機能を持っている以上、まったく同じことをやることが平等とは私自身は思っていない。ただ自分や自分たちの中にある「当たり前」になっているジェンダーのイメージに自覚的でありたいし、それを誰かに押しつけていないか、苦しませていないか、搾取していないか、と何かの折りに気づきたいし、気づいてほしい。
ムクウェゲ氏は2012年に国連でスピーチでを行った際NYで脅迫され、コンゴの自宅でも襲撃され、ボディーガードで友人の男性を目の前で殺されている。彼自身も襲われたが撃たれて死んだふりをして助かった。家族と自分の命を狙われたため、ベルギーに亡命した。しかし、キヴの女性たちは、私たちのドクター、ムクウェゲ氏に戻ってきて欲しいと懇願し、パイナップルの栽培で費用を貯めた。その思いにほだされ、ムクウェゲ氏は2013年にコンゴに帰国した。映画にも帰国したムクウェゲ氏を歓声で迎える女性たちの喜びの様子が記録されている。
「あなたの家に毎晩25人の女性を護衛につけます。あなたを殺す前に、追っ手は25人の女たちを殺してから行かなければなりません」と女性たちは語った。
それは女らしさだろうか?それとも男らしい行動だろうか?それを何と呼ぶかはともかく、ただただ勇敢だ、そしてかっこいい、と私は思った。
傷ついた女性たちを前にしたムクウェゲ氏は、女性たちに「あなたがたの純潔は失われていない」と語る。その言葉は力に満ちている。女性たちの尊厳を守ろうとする彼のあり方を、男らしさと呼ぶべきだろうか。でもその言葉や表情には、どこにもマッチョな印象はなく、聖人的でもなく、ただすっきりと、人間らしかった。
そして女性たちを守り、支え、立ち直ることを助ける活動の末、彼がたどりついたこと、それは「コンゴを法治国家にすること」であったことにも、とても感銘を受けた。報復と暴力の連鎖ではいけない。加害者、略奪者を殺すのではなく、罪を償わせる、そういう国であるべきだと。権力者の胸先三寸で白黒が入れ替わる場所、そういうところで法律の前で人が平等であることをこつこつと訴え続けること、そういう勇気はたぶん先進国の人間が想像する以上の大胆な勇気であって、時と場所によっては法を守ることを訴えるだけで命が狙われるのだ。
そして日本だって、昨今、当座の権力者の胸先三寸で黒が白になる場所になるつつある。女性だけではない、男性だって本当は搾取されている。搾取や蹂躙が当たり前すぎて慣れてしまっているから、鈍感になり他者を踏みにじっていても気づかない。黒板に白いチョークで書かれたIdentitèの文字、それは遠いコンゴの辺境から、男女問わず人間の尊厳について問い直すことを、静かに訴えていた。
現在も危険にさらされるムクウェゲ氏はどこに移動するにも国連軍の護衛がつく。今も前後を護衛の車に囲まれて、複数の病院と自宅を行き来する。
映画のラストで、コンゴ東部のブカブにある病院へ向かうムクウェゲ氏が、光を浴びる山の中腹の道路で隊列を止め、景色に見入る。「ここはルワンダとブルンジ、コンゴが接する国境です。私はこの風景が好きなのです」。
先日10月の東京大学のシンポジウムにムクウェゲ氏が来日した。セキュリティチェックもあり警戒が怠られなかったとのこと。
シンポジウムの様子はライチさんのこちらのブログ記事をどうぞ。
また、10月3日の記者会見の訳はこちらです。
こちらはTBSのドキュメンタリー。24分の動画で病院やワンストップセンターの女性たちの様子もあり、お勧め。