遅ればせながら、斎藤環先生の「オープンダイアローグとは何か」を読みました。
オープンダイアローグのラディカルなところって、究極的には治療ていう目的すら手放すところだと思う。対話という巨大な不確実性の宇宙の中で、クライアント本人、家族、セラピスト全員が平等にコントロールを手放す。
コントロールの欲求、欲望、色気のようなものを手放したときに、思いもしない自由がやってくる。
そういう意味で、ドキュメンタリー映画の中で心理士さんが言っていたように、これは政治の問題であり、デモクラシーなんだ、というのはすごくわかる。
治療というのもひとつの政治的枠組みだから。
でもそれを、生きることの肯定に変容させたい。
も ちろんオープンダイアローグもつきつめれば治療ではあるし、実践上はやはり危機対応みたいになることも多いだろう。あと、やはりこれは統合失調症の場合に 一番適するかなと思う。統合失調症の人たちは語りたい人たちだし、聴くだけでよくなることも市井では多々ある。たとえば引きこもりや依存症や摂食障害のよ うに、自分を知りたい人たちは、少し構造に工夫がいるかもしれない。
けれど、全員が同じ場で各自の身体性を持ち寄って、感情を動かす、そこに愛がある、と言い切る、根底にある哲学は好き。
私 自身事象をコントロールしようとしてしまうことがずっと悩みで、できればすべてのコントロールを手放して、その中から何かほんとうに新しい自由がやってく るような、そんなことをしてみたくて、いったん治療という政治的枠組みから離れてみようと思ったわけですが、結局のところ、まあたぶんそれはほんとうは枠 組みよりも姿勢の問題で。
ほんとうのところ、私たちはみんな、ただ生きたいのです。
たぶん、それだけ。
というようなことを今年は恥ずかしがらずに言って、表現していきたいと思います。
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