HOME, is where I want to be…

COVID-19禍の中、ここまで”Home”という言葉がクローズアップされたことは、今までもあまりなかったのではないかという気がする。
Stay Home, と曇りなく叫べる人は、物的・人的資源を含めてゆるぎないHomeがある人なのだろう。もしくは自分自身は恵まれていなくても、Homeを理想化できるほどの健全な心的リソースがあるか。
先が見えない中で、家族や同居者と苛烈な関係性にある人たちや、弱い人たち、たとえば子どもや障害のある人、高齢者を守らなければいけない状況にある人たちや、蓄えや住環境や人とのつながりに恵まれた状況にない独居の人は、STAY HOMEはなかなか辛い言葉である可能性もある。HOMEが辛い場所だった時間が長かったので、自分としてはHOMEや家や家族という言葉に複雑に絡み合った感情が湧き起こってくる。

こういうとき、つい自分の原点にある音楽に戻る習性で、Youtubeで色々好きだった曲を聴いている。
Talking Heads “This must be the place”は、直球でHOMEの歌だ。

こんなときでなくても名曲だなあと思って聴いている。けれど、今は、歌詞の単語のひとつひとつが、感情をもって現れてくる気がする。

Home, is where I want to be
But I guess I’m already there
I come home, she lifted up her wings
I guess that this must be the place

家、それはぼくがいたいと思う場所
でもぼくはもうそこにいるんだと思う
家に帰る、彼女が翼を広げてむかえてくれた
こここそが僕の場所なんだろう

基本的には、少し気の弱い誰かさんが、運命のパートナーに出会い、ついに自分のお家を見つけた、という幸福な気分にあふれた歌である。恋の高揚よりも、穏やかな落ち着きと安心に気づけたことの喜びを歌っているような気がする。

でも歌詞をずっと読んでいると、なんだかCOVID-19のような気分になってきて、本来の宿主であるコウモリ類から飛び出てしまって迷子になってしまったウイルスが、こここそがHOMEと思って次々に人間に飛び込んでいくさまのようにも思えてきてしまった。でもコロナウイルスのHOMEはヒトではないのである。帰るべきHOMEを探して、世界中をさまよっている。

We drift in and out
Oh! Sing into my mouth
Out of all those kinds of people
You got a face with a view

I’m just an animal looking for a home and
Share the same space for a minute or two
And you love me till my heart stops
Love me till I’m dead

僕らは出たり入ったり、漂流する
お口に向かって歌を歌ってよ
同じように見える人々の中でも、きみがはっきり、その人だとわかったんだ

僕はお家を探しているだけの動物
1-2分だけ、居場所をもらいたいだけ
僕の心臓が止まるまで、君は僕を愛してくれるよね
僕が死ぬまで愛してよ

迷子になったウイルスたちは、帰るべき家を探してさまよっている。都市部で一番多い動物であるヒトの口に、おうちはここかな、今度こそ見つけた!と思って闇雲に飛び込んでみる。あと少しだけ生き延びたいだけ、でも翼をひろげて迎えてくれるHOMEであるコウモリは、どこにもいない。ウイルスをHOMEから追い出したのは、森を掘り進めたのは、ヒトだから。ウイルスたちにほんとうのおうちに帰ってもらうべく、ヒトは家にとどまる。ウイルスにこここそが家に違いない、と勘違いさせないように。

一方で、隔離されてみると、人にとってのHOMEは血縁の家族であったり物理的な自宅では必ずしもなく、オンラインでも遠隔でも気兼ねなく話ができたり、理解し合えると感じあえる人々とのつながりであったりするのだなと思った。地理的、血縁的な条件を超えたところに、意外とHOMEはあるのかもしれない。そんなことをこの日々の状況で感じながら過ごしている。

I love the passing of time
Never for money, always for love
Cover up and say goodnight, say goodnight

過ぎていく時間を時間をただ愛している
お金のためじゃない、いつだって愛のために
毛布をかけて、おやすみ、おやすみなさい

David Byrneに怒られるかな。怒られたらいそいそと取り下げるかもしれない。