1ヶ月ほど前になるが、「悪魔祓い、聖なる儀式」のドキュメンタリー映画を観た。イタリアのシチリア・パレルモのとある教会。カタルド神父はエクソシストの資格を持つ神父であり、火曜日の悪魔祓いの日にはシチリア内外から希望する人が集まる。その様子を一切のナレーションや音楽もなく、淡々と記録した記録映画である。
実はその前に韓国のホラー映画、「哭声(コクソン)」を観て、これも悪魔祓いを巡る話、ひいては「誰を、何を、どうして、どのように信じるのか?」というテーマの話だった。この映画に出てくる韓国の悪魔祓いの儀式は、祈祷師が色とりどりの衣装を着て、屋外で火の周りで動物の死骸を吊し太鼓を打ち鳴らし叫び回る大変派手なものだった。対決する國村隼演じる祈祷シーンは、密室のろうそくの火の中で白装束で唸る、というものでそれも日本ではありがちな描写ながら國村の形相が抜群に恐ろしかったのだが、日韓の悪魔祓い儀式の姿勢の違いというか、こもった怨念の日本、アッパーなフェス系韓国という対比がおもしろかった。映画好きな韓国の友人に聞いたところ、韓国ではかなりこの映画は社会現象になったらしい。そして韓国でも悪魔祓いの需要は高くて、自分の友人は大学で悪魔祓いを教えているから紹介してあげようか?コクソンに出てきたやつだよ、と言われ、あれは本当にやっている儀式なのかととても驚いた。大変に興味を引かれたものの、火中にわざわざ飛び込むのは自分が憑かれそうな気がしたので遠慮した。
そんなこともあり悪魔祓いに関心を持ったのもあり、また去年パレルモに訪れてとても美しく親しみのある街で、それでこの映画も観ようと思っていたのだった。
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月別アーカイブ: 2017年12月
Twitterとじました。
長らく迷っていたが7年続けたTwitterアカウントは閉じた。寂しくなるかと思ったが、むしろほっとした。たくさんの出逢いがあったが、なんかしばらくはもう出逢わなくていいかなという気持ちになったのと、断片化された言葉や情念、思考のかけらが大量に流れてくると自分の中に失敗したテトリスのように積み上がってきて、いっぱいいっぱいになり終了、という感じが一番近いような気がする。SNSは出逢いのためのフォーマットが揃っていることで、そこにいる人と平等に出逢うことができるが、逆に人の決めたフォーマットの上に乗って言葉を発しているとそのお作法が結局だんだん息苦しくなる。自分は枠組みが苦手な傾向があって、仕事もそうやってあんまり気が進まなくなっていったし(適応しようとかなりがんばったが)、共感されても支持されても批判されても、結局他者から何かを向けられるとそれを拾おうと一生懸命になってしまい、自分の中にもやっとあって排出したかったものを見失ってしまう傾向があるので、自分で管理できるブログのほうがしばらくいいかなと思った。Twitterの素敵だったアカウントを思っては懐かしんだりするが、自分がその中に入って交流しなくとも外から見ていても充分楽しめるので、時々検索しては眺めている。それで充分である。もしまた何かを広く発信して広く人と出逢いたくなったらTwitterのアカウントを作るかもしれないが、まあもうしばらくはいいかな。自分の自由に集中したいと思う。
To be original, or not ?
少し前のことになるが、ロバート・キャンベル氏と多和田葉子氏のとある学会での対談を、たまたまインターネットで観た。普段あまり聴くことのない文学的な対談で、ドイツ在住でドイツ語でも著作のある多和田氏の特異な言語感覚もあってとても興味深かったのだが、その中でcultural appropriateという概念について語られていた。
私はその概念について初めて知ったのだが、cultural appropriationとは、その文化に属さない者がある文化の因子を取り入れることで、いわば文化の盗用のことらしい。キャンベル氏は和服が好きでよく着るようなのだが(私も上野か本郷で和服を着たキャンベル氏を見かけたことがある)、いわゆる欧米人の前では、それはおかしい、と思われることがあるとのことだった。日本人からは言われないとのことである。なので、どうも、cultural appropriationというのはその文化の人から出た盗用の不服申し立てというよりは、その文化に属さない人々の側から出る違和感のようなものなのだろうか。appropriateという単語、長らく適切なという意味しか知らなかったのだが、今回初めて「私物化する」という意味もあるのを知った。
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