短い旅の間でバガンに行った。バガンは40km四方に3000ものパゴダが点在している世界三大仏教遺跡群のひとつ。
シュエサンドー・パゴダの上から夕暮れを観た。ひたすら静かな夕暮れ。
馬車でパゴダ群を回った。ひたすらのんびり荷台にゆられる。御者のウェンゾーさんは英語が上手で穏やかな人だった。
パゴダの名前は忘れたが、夜にあるパゴダを訪れた。濃い闇の中で金色に浮かび上がるパゴダは、夢の中のような光景だった。
14歳くらいの少女が話しかけてきた。流暢な英語だった。どこから来たのか、何歳か、なぜミャンマーに来たのか、これからどこへ行くのか・・・私たちは互いについてひとしきり話した。
「私は外国へ行けると思う?」と彼女は聞いてきた。それだけ英語が上手けりゃ、いつか行けるでしょ、と私は何気なく答えた。彼女は私をちらりと見て、それ以上何も言わなかった。この時は、まだこの人たちが置かれた政治的状況について考えることもしなかった。
ヤンゴンに戻ってきた。ヤンゴンではどの車もめちゃくちゃ古い。20年物とかはまだ新しい部類に入る。30年前のバスとかが人をドアからはみ出すくらいまで乗せて走っている。バゴーまで行くタクシーの中で聞いたのは、15年落ちくらいのダットサンは700万円くらいするのだと。「日本だったらお金を払って廃車だよ」と言ったら、政府が関税をかけているのだそうだ。それでも車があれば安定した商売ができるので、皆でお金を貯めてなんとか買うのだという。
道路ではいくつか検問があった。銃を持った兵士がドライバーのチェックをしていた。町と町の間の荒れた土地では工事をしていて、ドライバーは「あそこで働かされているのは、囚人だろう」と言った。
シュエダゴン・パゴダを夜に訪れた。ヤンゴンで最も大きな、美しいパゴダだった。闇に浮かぶ有名な観光地なので、英語を話すガイドがいて、3ドルくらいでガイドしてくれた。彼も静かで英語の上手な人だった。彼が「ミャンマーの人たちはフレンドリーでしょう」といったので、激しく同意した。
ミャンマーで私は一度も危ない目には遭わなかった。たまたま運がよかったのかもしれないが。バガンではレストランはどこかと聞いたら意味が通じず、4人くらいのおじさんが集まってきて「はて・・・」と考えてくれた(結局ビルマ語で「タミン(ごはん)」と言ったら通じて、おお~と喜ばれた)。ヤンゴンでも市場付近に少し怪しげな人がいただけで、移動も食べるものも困らなかった。治安もよかった。みな親切だった。
そう、確かに悪い人はいなかった。町の中には。悪い人は、みえないところにいたのだろう。
ビルマVJには、全くの丸腰の無抵抗の僧侶や市民が、兵士に殴られたり銃で撃たれる光景が収められている。驚くほど武装も抵抗もなく、ただ撃たれるだけで、兵士の暴力よりもむしろ市民の丸腰ぶりのほうにかなりの衝撃を受けた。軍政が市民が抵抗できないよう教育レベルも低くしているとも聞くが、それ以上にもともとpeacefulな人たちなのではないかと思う。
あの宗教的な穏やかさに満ちた美しいシュエダゴン・パゴダでも、暴力的鎮圧が起こった。僧侶も一般の人も殴られてトラックに放り込まれ、命を落とした。パゴダで座って、祈りを捧げていた僧侶も含めてである。ヤンゴン周辺の僧侶は3万人ほどいたが、数千人の行方がわかっていない、という説もある。多くの寺院が僧侶の不足により、閉鎖になっているという。未だ捕らえられていたり、還俗させられたりしているようであるが、その正確な数などはわかっていない。
政治的体制は、見る者の立ち位置によっても何が正しいか、というのは異なるだろう。私には何が正しくて間違っているのかはわからないし言うこともできない。
治安のよさは軍政が守ってきたものかもしれない。また、まがりなりにもそれなりの経済活動はできる。アフリカや一部の中東のようにテロが続き、無政府状態になっている国よりははるかにましだろう、という考えもある。
しかし、ささやかな精神的・物質的自由を望んだだけで、殺されたり投獄される国はまだあるのである。市井の人々が望んでいるのはイデオロギーではなく、ただ単に適正な価格で物を買ったり、家族が一緒に健康に暮らせることだけだと思うのだが。
この映画の原案、脚本を担当したヤン・クログスガードは日本の各紙のインタビューでこう語っていた。
「アジアに民主主義的な『価値』を輸出できる日本だからこそ、善悪を考え、どんな行動をとるべきか判断してほしい」
「日本人は人間を大事にすることを示してほしい」
個人がひとりでできることはそう多くはない。でもできることはゼロではない。1988年の時、インターネットはまだなかった。今はネットがある。今回、私は自分とビルマを結んだ縁とこの映画について書いてみることにした。アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にもノミネートされたが、オスカーはこの映画より「ザ・コーヴ」を選んだ。おそらく彼らにとってはミャンマーの人々よりイルカのほうが身近なのだろうと思う。このブログが何らかの解決につながるとはとても思えないけれども、記してみることには意味があるし何らかのもっと大きな力につながればと思う。政治的な善悪はともあれ、穏やかでフレンドリーだったビルマの人たちの幸福を願う。この9月から、第三国定住で日本はビルマの難民を90人受け入れるという(8/27 asahi.comの記事)。日本に来るということは彼らの真なる願いではないと思うが、それでも何かよい体験をされることを願う。
参考図書。
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