医療と前よりは距離をとっている今、色々思うところがあって、少しまとめたいと思う。
まず、病気とは何なのか、よくわからなくなってきた。精神科外来には、いわゆる診断基準で定義された「病気」とは言えない相談がよく持ち込まれる。それらはその時点では「病気」というより「悩み」や「心配」だったりし、それは診療所で健康保険を使って診るべきものなのかどうなのか、などと考えたりする。ただそれが「病気」に進展しない、と断言もできず、なんとなく相談に乗りつつ、引っ張ったりもする。しかしそれが良く作用して、来た人が幸せになるかというと、かえって医療という枠組みへの依存につながってしまったこともあったと思う。私自身は薬をたくさん出すのは好まないが、昨今の多剤併用の問題も、本来は医療で診られない問題を医療で扱おうと努力するとそうなってしまうのだと思う。中途半端な「医療」や「支援」はかえって毒だなあと今では思う。そういう意味で、反精神医学的な思想には、一部ではあるが共感もする。「悩みは薬では治らないし、病院に来ても医者が治せるはずもない」。よく考えてみれば当たり前のことだ。
とはいえ、「悩み」の相談が全部医療の対象外かというと、広い意味では自分で全部抱えているよりは、他者に対して話したほうがいい場合もある。それは医者やその他の人が何か良い解決策を持っているからではなくて、話すことで自分の中が整理される作用のほうが大きい。また、話してみると、世の中には結構同じような問題が多くあってそれなりになんとかなる、ということもわかったりする。あるいは公的に使える資源もあることがわかったりもする。相談自体の中で何か良い答えが得られるというより、相談したこと、悩みを自分の中にとどめずに出したことをきっかけに違う展開が開けるということもある。
精神科には、結構そういう人もいて、「違う人に話してみたかった」という様子で来て、1-2回だけで来なくなる。そういう人たちに、私自身は一番良い仕事をした気がする。
一方で医療自体がかなり良く作用することもある。診断と治療法がある程度確立している病気の場合である。こういうときは誇らしいしまたあまり疲れない。
あるいは、より社会的な問題を含む場合に、公的資源や支援活動、ときどきは法律相談につなげて、それである程度なんとかなることもある。
医者や医療機関は保険医療の枠組みの中にいる限り、基本的に「病気を良くする」ことに徹するべきだろうと思う。それなりの期間医業をやってみて思ったことだけれど、医者は「病気を取り扱い、その治癒を手伝う」仕事であり、「健康を創る」ことは得意でない。少なくとも病院という場の枠組みでは、おそらく難しいのだと思う。病気というのは、診断基準というものがあるように、個性が失われてカテゴライズされた状態である。だからこそ、たくさんの病気とたくさんの人をmassで診ている医者に一日の長がある。対して、健康は個性であり、ひとりひとりが自分と対話して創りあげていくものだ。だから医者に健康について聞いても要領を得ない。医者はだいたいあまり健康な生活をできていないことが多いし、医者が語れるのは、厳密にはその医者個人の健康だけであるのだと思う。
このあたりの「病気をよくする」と「健康を創る」の似て非なるニュアンスは別の機会にもう少し丁寧に考えてみたい。現在の医学も、反医学的な健康養生論も、ここをかなり混同していることで混乱が生じていると思う。
「この困っている状態は病気か病気でないのか」ということは一般の人にはもちろん判断が難しいし、そもそもその境界は医療者にとってもそんなに明確でもない。悩みや心配も含めた雑多な身体的・精神的・社会的問題が、最初に病院や診療所に集まるのは仕方ないと思うし、悪いことでもない。けれどもあくまでも医療機関は問題のいわば最初の「ポータルサイト」で、医療機関は病気の部分を担当するけれども、他の問題に関しては、そこから本当に必要な人や支援やサービスやグループにつなげていければいいなと思っている。難しいけど、でもこれはうまくマッチングがいくととてもやりがいのある作業だ。ただ、逆に「何を医療機関で診るべきでないか」についても考える必要があるだろう。
病気自体が、実は治癒の過程だと思う。病気とは、先天性のもの以外は、なんらかの心身の無理のあるあり方が続いて代償がきかなくなったときに、可視化されて顕現しているのだと思う。ある意味「無理がありますよ」と知らせてくれる現象であり、自分にとって自然な身体的・精神的・社会的在り方とはどういうものなのか、ということを考え直すきっかけをくれるものだと思う。なので、実は安易にただ症状を押さえ込でもいけないし、また治療者が治療にまつわる判断や決断、責任をすべて引き受けてもいけない。症状や苦しみをあってはいけないもののごとく抑え込むのではなく、その人がなるべく「健康に」「無理なく」通過していくことを助けようという意識でいれば、たとえ行う治療や結果はあまり変わらなくても、病む人に残る力が違ってくるだろう。
体験の痛みを超える力を残すためにこそ、身体的な痛みや苦しみに関しては医療者はプロとしてなるべく緩和したほうがよいのであり、体験の痛みから目を背けるために抑え込むのではないと思う。耐えきれないときは逃避して休養することも必要だ。しかし、力が得られたら、少しずつ向き合うタイミングがいつか来る。それは決して苦痛だけでもなくて、豊かな実りあるプロセスで、いっときは苦しくても必ず次へ踏み出す力が得られることは自分の体験からも知っている。
それはその人が自分でしなければならず、誰かが肩代わりすることはできない。でも、それを知っている誰かがそばにいてくれるほうが、ひとりだけで取り組むよりはずっと楽だ。
しばらくあまり書けなくなっていたけれど、つらつら書いていると頭の中が整理されるので、またぽつぽつ書きたいと思う。
先日検索で、こちらの記事を拝見いたしました。
なるべく「健康に」・「無理なく」・通過していく。
このフレーズに感じるものがあり、
先生の記事の趣旨とは違う受け止め方ですが、
おことわりもせず、こちらの記事の文章の一部をブログに引用いたしました。
事後のご挨拶になりましたが、お礼申し上げます。