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ロックで読み解く貧困 (4) 労働の貧困 -XTC “Making Plans for Nigel”

ロックで読み解く貧困シリーズ、最終回です。実はこの最終回が書きたくて始めたのだった。最終回は、労働にまつわる貧困です。そして大好きなXTCの曲です。

細々と、一番長く続けている仕事がある。飽きっぽく腰の据わらない自分が、10年ほど続けている。とある自治体の知的障害者作業所の精神科相談である。
この仕事は、ほんとに若くて未熟なときに始めた。利用者の人たちは、そもそも口数が少ない人が多い上、多くない語彙の中からわずか数語に、言葉にならない思いを乗せてコミュニケーションをする。初めて会う人には緊張して、ますます言葉が減る。なので、どういう言葉を使うかとか、何をどういう風に尋ねるか、とか試行錯誤の上、内面よりも生活のことに絞ったほうが話しやすいという知見を得た。気分はどうかよりも、ご飯を何時に食べたかのほうが答えやすいし、生活と行動を丹念に聞き取ればそこに何らかの思いや意図が見えてくる。
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生きることを選ぶのは、生命自身である。

意識回復の被害者「助けて」と叫ぶ 相模原殺傷(朝日新聞デジタル) – Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160727-00000087-asahi-soci

悪意に満ちた凶器に傷つけられた瞬間、薄れる意識の中で、声に出せなかった「助けて!」の言葉。一瞬で凍りついて、脳のどこかにそのまましまわれたのだろうか。

出血した被害者は身体の血液の3/4を失っていたという。生命の維持がぎりぎりの中でも、削除されずに保存されていた言葉、「助けて」。治療を受けて意識を取り戻した瞬間に、解凍されて発された。それはほんとうに、生命の叫びだったのだと思う。そのことに心を動かされた。

生 きたいと思う生命は、生きたいのである。重複障害であるとか、重度心身障害であるとか、生産的であるかどうかは、生きることと全く関係がない。生きるかど うか選ぶのは、生命自身である。生命について、どのような生命が生きるべきかを誰かが理性で選ぶことは、本来的にできない。

そしていのちは「生き返った」とほっとして、「おなかがすいた」と思うのである。

障 害にかかわる領域にいると、意志疎通がまったくできなかったり、全介護の生活であったりして、このような生活の中でこの人は何を思っているのだろう、と思 うことは確かにある。そして障害が軽い人であれば、何がしかの「社会的生産」のレールに乗ることを支援したくなる誘惑が、援助者としてのわたしにはある。 「働かざる者食うべからず」という文化的構えは、教育や慣習によって、いかにも正当なように無意識に刷り込まれている。

しかしそれはほんとうに、生きている生命と関係がない。生命の生きたい衝動は、単に存在する。それが、いのちなんだなと思う。

重症の被害者を複数受け入れ迅速な治療を行った救急センターのスタッフの方々に敬意を表する。