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演劇 精神病院つばき荘

精神病院を舞台にした演劇、「精神病院つばき荘」を観てきました。結果、号泣してしまった。やっぱりちょっと精神状態が繊細なのかもしれない。隣の人も少し泣いてたけど。

https://stage.corich.jp/stage/96538

以下ネタバレです。

精神科医院長が院内で発言力のある長期入院の患者のもとに、頼みごとがあると訪れる。最初は腰低く、懇願しながら、そして次第に恫喝し脅迫しながら、病院の存続に協力してほしい、貴方だってこの病院以外に出されたくないでしょう、もう家のようなものでしょう、と。その理由とはー。
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問うや問わずや、人生の意味

前回、依存症のことを書いた。依存症の自己治療仮説について紹介し、「薬物はあなたに何をもたらしてくれましたか?」と問うことが治療において重要な問いであることを紹介した。つまり、薬物を使っていた「意味」について問うということである。
「意味」について問うということについて考えていたら、私が若年アルコール依存症者のプログラムを担当していたときに出会った、対照的なふたりを思い出した。
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依存するからだ、依存できないこころ

  
 「人はなぜ依存症になるのかー自己治療としてのアディクション」(星和書店)を読んだ。アメリカの薬物依存症治療のエキスパートであるカンツィアンらの原著を、日本における第一人者である松本俊彦先生が翻訳したものである。
 この本では、「薬物依存症は感情的苦痛を和らげるための自己治療の試みである」という「自己治療仮説」について述べられている。
 私が興味をもって読んだのは、彼らは快楽追求のためというよりはむしろ、感情的苦痛を和らげるために、薬物を「選択」して使用している、ということであった。たとえば攻撃性と怒りの感情が激しい人はヘロインなどのオピエートを好んで使用する。ひりひりするような怒りを何とかコントロールして、人間関係を丸く収めようとする。アルコールを好む人は、不安が強く、対人緊張を和らげ快活な自分を演出するために飲酒する。もともとうつ病や不安障害、ADHDなどの精神障害が併存している人も、一定の割合で存在する。ここには、「精神的問題への対処としての、死にものぐるいの自助努力」としての薬物依存症の像がみえてくる。

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薄暮のロードマップ― 書評+α「患者から早く死なせてほしいと言われたらどうしますか?」

 人は誰でも死ぬ。それはいわば卒業のようなものであり、学校に永遠にいられないのと同じく、果てしなく続くように思える日常生活の先に、必ず死というプロセスがある。健康なとき、私たちは普段の生活の中でそれを意識することはほとんどない。しかし治癒が難しい病や加齢などで、必ずそのときは来るのであり、しかもその人にとって必ず初めてであり、そして1度限りの体験である。周囲の家族も含めて、多くの場合不安となり、ただただ困惑することが、ある意味自然な反応であると思う。
 著者は病院でのホスピス勤務を経て現在在宅診療を専門に行っている緩和ケア医であり、数多い看取りを行ってきた、いわば「終末のエキスパート」である。医師であれば一般の生活者よりは、多くの死に立ち会う。多くの科では未だそれは「敗北」、もしくは仕方なく受け入れるものであるが、著者は、いずれやってくる生命の自然な過程としてその時間に寄り添う。
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