投稿者「Mahiru」のアーカイブ

Twitterとじました。

長らく迷っていたが7年続けたTwitterアカウントは閉じた。寂しくなるかと思ったが、むしろほっとした。たくさんの出逢いがあったが、なんかしばらくはもう出逢わなくていいかなという気持ちになったのと、断片化された言葉や情念、思考のかけらが大量に流れてくると自分の中に失敗したテトリスのように積み上がってきて、いっぱいいっぱいになり終了、という感じが一番近いような気がする。SNSは出逢いのためのフォーマットが揃っていることで、そこにいる人と平等に出逢うことができるが、逆に人の決めたフォーマットの上に乗って言葉を発しているとそのお作法が結局だんだん息苦しくなる。自分は枠組みが苦手な傾向があって、仕事もそうやってあんまり気が進まなくなっていったし(適応しようとかなりがんばったが)、共感されても支持されても批判されても、結局他者から何かを向けられるとそれを拾おうと一生懸命になってしまい、自分の中にもやっとあって排出したかったものを見失ってしまう傾向があるので、自分で管理できるブログのほうがしばらくいいかなと思った。Twitterの素敵だったアカウントを思っては懐かしんだりするが、自分がその中に入って交流しなくとも外から見ていても充分楽しめるので、時々検索しては眺めている。それで充分である。もしまた何かを広く発信して広く人と出逢いたくなったらTwitterのアカウントを作るかもしれないが、まあもうしばらくはいいかな。自分の自由に集中したいと思う。

To be original, or not ?

少し前のことになるが、ロバート・キャンベル氏と多和田葉子氏のとある学会での対談を、たまたまインターネットで観た。普段あまり聴くことのない文学的な対談で、ドイツ在住でドイツ語でも著作のある多和田氏の特異な言語感覚もあってとても興味深かったのだが、その中でcultural appropriateという概念について語られていた。
私はその概念について初めて知ったのだが、cultural appropriationとは、その文化に属さない者がある文化の因子を取り入れることで、いわば文化の盗用のことらしい。キャンベル氏は和服が好きでよく着るようなのだが(私も上野か本郷で和服を着たキャンベル氏を見かけたことがある)、いわゆる欧米人の前では、それはおかしい、と思われることがあるとのことだった。日本人からは言われないとのことである。なので、どうも、cultural appropriationというのはその文化の人から出た盗用の不服申し立てというよりは、その文化に属さない人々の側から出る違和感のようなものなのだろうか。appropriateという単語、長らく適切なという意味しか知らなかったのだが、今回初めて「私物化する」という意味もあるのを知った。
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SNS

2010年から続けてきたtwitterのアカウントを閉じるかどうか悩んでいる。沢山の良い出逢いと濃い経験があったけれども、大相撲で言うと6勝9敗くらいの感じで、結果的に消耗するほうが多かったようにも思う。維持することに疲れてきているのも確かで、ネットの空間に墓標のように置いておくよりは、綺麗に灰にしたほうがよいかな、そしてまた始めるなら新たに始めるほうがよいかなと思っている。アカウントは削除したので30日経てば完全に消えるが、過去には復活したりまた消したりしていて、まだ迷いもあることは確かだ。
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自分に敬意を払うこと

「自分で自分に敬意を払わないで、どうしてだれかに敬意を払ってくれるよう頼めますか?」
最近見たその言葉が心に刺さった。

単純に考えて、自分のケアを最後までしてくれる人、というのは自分しかいない。誰も自分の代わって自分のやりたいことを成し遂げてはくれないし、自分の体を他人が思い通りに動かしてくれることもできない。自分しか自分の思いを実現することはできないし、不調になったときに最初に気づくのは自分である。今日は身体がだるいとか、少し歯が痛い、など、他人が先に気づいてくれることはないし、ましてそれを期待することは無理だ。もちろん、病気などで自分の身体が思い通りにならないときや、自分を見失っているときは、人に頼まざるを得ないし、そのときは堂々と頼むべきだ。でもそれと、内面の感覚、感情、意欲、理想、目標に関してはまた別のことだと思う。
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めんどうなひとにまきこまれない

年末に、「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」というフレーズを見かけて、何だかその響きのキャッチーな語呂の良さに笑ってしまった。ああ、そういう人いるなあ、と思ったけれども、自分もそういう人に多少振り回されていたというか、自ら振り回されたというか、そういうところがあったなあと思った。
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