自分に敬意を払うこと

「自分で自分に敬意を払わないで、どうしてだれかに敬意を払ってくれるよう頼めますか?」
最近見たその言葉が心に刺さった。

単純に考えて、自分のケアを最後までしてくれる人、というのは自分しかいない。誰も自分の代わって自分のやりたいことを成し遂げてはくれないし、自分の体を他人が思い通りに動かしてくれることもできない。自分しか自分の思いを実現することはできないし、不調になったときに最初に気づくのは自分である。今日は身体がだるいとか、少し歯が痛い、など、他人が先に気づいてくれることはないし、ましてそれを期待することは無理だ。もちろん、病気などで自分の身体が思い通りにならないときや、自分を見失っているときは、人に頼まざるを得ないし、そのときは堂々と頼むべきだ。でもそれと、内面の感覚、感情、意欲、理想、目標に関してはまた別のことだと思う。

依存先をなるべく沢山持つことが健康だと、医療ではよく言われ、それには同意する。ほんとうに、可能ならそうであることが健康だと思う。前も依存症のエントリで書いたことがあるが、依存症の人たちは信頼し依存できる人がいないので、物質に依存する。ある摂食障害の女性は「美味しいお菓子は私を裏切りません」という言葉をメールで送ってきた。
食べ物、アルコール、薬物は裏切らない。心もなく、私を非難しない。いつでも同じ機序で作用し、落ち込みを忘れさせ、私を助けてくれる。最高に信頼できるパートナーだ。しかし、摂取を続けているうちに、良い作用は少なくなり、抑うつが消えなくなり、切れると動けなくなる。物質は裏切らない。裏切るのは自分の身体、脳、心だ。耐性形成というメカニズムで。

「依存先を沢山持つこと」という正しさに接するたびに、そういう人たちは良い環境で育ったのだろうなと思う。世の中には、か細い声で助けてと発した瞬間に、周囲が最後の骨まで食いつくしにくる、そういう世界もある。経済的な貧困のあるところに多いが、それに関係なくそれが文化であったりもする。動物は弱った個体から先に捕食者に食べられる。鮫やピラニアは血の匂いを嗅ぎつけてやってくる。彼らにとってはそれが正しい本能行動であるように、誰もが自分が生きることで必死な世界では、良し悪しでなく、そういう文化になる。助けてと言った瞬間に淘汰されるなら、裏切らない物質に頼り、必死に傷を隠し、弱っているうちは、声を出さずに手負いの獣のようにじっと身をひそめる、そういう行動を身につけるのが当然だと思う。

でもたとえそういう世界にいたとしても、最後まで自分といてくれる存在がある。それが、わたしだ。私が嫌なことは、わたしも嫌だ。わたしが美しいと思うものは、いつだって美しい。わたしは私を裏切らない。わたしが裏切るのは、外の世界に私の承認を求めた場合だけだ。わたしの承認は、本質的に私しかできない。
だから本当は、自分に一番敬意を払うべきだ。私が考えること、感じること、美しいと思うもの、これは嫌だと感じること、わたしの倫理。それらは大多数の他者にとっては、どうでもいいことかもしれないが、私にとってはかけがえのない感情や観念だ。それらを大事にすること、それができた人が、他者を蹂躙するはずがない。他者の中にもかけがえのないわたしがいること、それを理解できるはずだから。奪い奪われる世界の中にいると、それに慣れてしまって自分を大事にするどころではないと思う。でも、今はできなくても、心の片隅で覚えておいてほしい。自分を大事にする人を、必ず世界は助けてくれ、自分を大事にする人は、世界を助けることができる。

一番はじめに書いた言葉は、ちなみに誰の言葉かというとエドワード・スノーデンである。この本にあるらしい。今はあまり読みたい本ではないが、いずれ。