めんどうなひとにまきこまれない

年末に、「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」というフレーズを見かけて、何だかその響きのキャッチーな語呂の良さに笑ってしまった。ああ、そういう人いるなあ、と思ったけれども、自分もそういう人に多少振り回されていたというか、自ら振り回されたというか、そういうところがあったなあと思った。

対立して絡まれるとおそろしい。というか面倒くさい。面倒を恐れて相手してしまったり、相手がずらしてくる論点に乗っかって相手の論法で勝てる土俵にわざわざ移動してしまったり。あるいはもっと面倒になって機嫌をとってしまったり。
ああ、相手しなきゃよかったなあと後で悔しくなるが、そういう人はわりといつもそういうコミュニケーションパターンを取っていることが多い。ディスカッションではなくディベート。自分と相手の価値の相違から新しい建設的な思考を産もうとすることより、相手の意見のアラを突いて自分の正当性をただ立証するための論理を常に探す。

相手が持ちかけてくる勝負には、まず乗らないほうがいい。淡々と事実だけを述べてそれ以上の応酬にしない。特にどうしたら勝てるかと考え始めたら、必ず負ける。怒りであろうが、妥協であろうが、真摯な向き合いであろうが、媚びへつらいであろうが、恐れであろうが、懐柔であろうが、どんなエネルギーを投入したところで、それは燃料にされる。そういうコミュニケーションを常に取り慣れている人にはその土俵ではまず勝てない。と知っていても、時々感情に駆られてまんまとはまってしまうのだけど。
翻って、そういう人が味方についたときに、なにがしかの力になってくれるかというと、そうでもないのだった。

そういう人がいたとして、急に誰かを誉め始めたり、擁護し始めたら、その味方された対象は、かえってうさんくさく見えると思う。利益や勝敗でしか動かない(と思われている)人が、何か誉め出したら、そこには利益があるからだろう、と考えられるのは当然だろう。建設的な批判をくれる人、間違いの指摘をしてくれる人は、あなたの足下を脅やかして転ばせようとするような言説はしない。あなたの人格ではなく、考えの部分をもっと建設的に、創造的にしようとしてくれるだろう。その区別は容易につくと思う。

面倒な人は面倒なので、持ち上げて丸く納めよう。そういう妥協が、だいたい、より大きな面倒を引き起こす。でも戦っても消耗する。
この人が味方になってくれたとしたら、自分にとっても力をくれるだろうか。そう考えると、それ以上その関係に手をかけるべきかどうかが判断できると思う。

もうひとつ、その人が敵のようにしか見えなくなっているときは、自分自身もだいたい弱っている。なので、そこも深入りしないほうがよい理由。むしろ自分自身に手をかけてあげたほうが、たぶん色々よいことがあると思う。