投稿者「Mahiru」のアーカイブ

荒れた世界の中で、庭に手を入れつづけること

ようやく自分のブログに戻ってきて、家に帰ってきたようにほっとしている。ここ5-6年、特に震災以降、TwitterやFacebook、tumblr、noteなどのSNSに書いてきたけれども、SNSはどう見られているか、が気になってしまいあまり落ち着いて自分の思考や感情に集中できない。もともとあまりソーシャルではない人間なので、正しいとか役に立つ情報発信というよりは、自分の思っていることを整理するために文を書くほうだ。
今後はなるべく自分のブログに色々書こうと思っている。あまりまとまった文章にこだわらず、短い文、軽い雑感でも、書いていくつもりだ。

年始に色々ウェブ関係の整理、SNSの見直しや移転したまま放置していたブログの削除をしてみたが、ほんとうにフォーマットによって人の行動というのは制約を受けるものだなと思った。
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ラスボス

励ましあってるつもりで、消耗していた。喜びを分かち合っているつもりで、奪われていた。生きているとそういうことはよくある。なんとはなしの違和感、夜更 けに叫び出したくなるような怒り、そういうものに蓋をして生きている。感情というのは何かを示しているので、自分の中から聞こえてくるかすかなその声には 耳を傾けなければいけない。でないといつの間にか自分の中の泉は、涸れて干上がっている。

あなたの力を吸い取る相手は、決して悪魔らしい顔をしているとは限らない。また、悪意があるとも限らない。また、人であるとも限らず、場であることもある。
そういう関係性の仕組みがあるだけで、その中にひとたび入ってしまえば、尽くす側はひたすら尽くしたり貢いだり、奪う側は微笑み感謝しながら涸れるまで吸い尽くす。そしてこれは逆転することもあり、あるとき尽くす側が奪う側に回る。
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賑やかな終末と静かな始原-杉本博司展「ロスト・ヒューマン」

東京都写真美術館の杉本博司展「ロスト・ヒューマン」、ようやっと行けました。感想、長文です。

2 階では、世界の終末を示した33のシナリオを、いつのまにか古物商もやってた杉本の膨大な古物インスタレーションが飾る。色々な立場の人が、「今日、世界 は死んだ。もしかすると昨日かもしれない」という言葉で始める手書きの後悔の告白とともに、戦時中米軍が発行したJap hunting licenseとか、三葉虫の化石とか、ラブドールとか、ハリケーンで浸水した杉本の作品とか、もうありとあらゆる古物が並ぶ。
なんかそれらのシナリオはいちいちB級SFのようで陳腐で滑稽なんだけど、どれかはひょっとすると、なくもないかもしれないと思うわけです。あの不動産王のような言葉を使う人が人気を得て大統領候補になるのがこの世界のリアリティ。
そ の中でも毒ガスマスクをつけて横たわる帝国陸軍の扮装をした人形が印象に残った。撃ちてしやまん的な大日本帝国ワードが並ぶ旗のようなもので包まれてい る。「戦闘ではなく、衝突です」というような空疎な虚言を重ねた果てに、かつては立って話して笑っていた人が、横たわる物体になって帰ってくる世界があ る。そのときもあくまで、「決断の失敗ではなく、悲劇です」と定義されるんだろうな。世界は言葉から病む。世界は言葉から始まったのだから。

3 階の展示は杉本の代表作、劇場シリーズ。今回は、米国の廃墟になった映画館を探して、ゴジラとかローズマリーの赤ちゃんとか博士の異常な愛情とかのディザ スタームービーを上映し、映画一本分の露光で映画館を撮った作品。廃墟映画館を探すのが相当大変だったらしい。廃墟劇場シリーズは2階の喧噪とはうってか わって、静かな終末感。でも何やらすっきりと新しい始まりのような印象もある。
もうひとつ、今回新作として、三十三間堂の仏像群を早朝の光だけで撮った「仏の海」シリーズもあった。全部違う仏のはずなんだけど同じアングルで撮られていて、ほんとにひとつひとつが違う波だけど全体としてひとつの海であるような。

終末の後に涅槃に至り救済されるということらしい。作者の趣向は分かりやすい、でも作者の意図を作品群がちゃんと超えている気がする。断片化した古物、それは後でちゃんと調和した統合に至る。ひとつひとつが違う動きをする波が、ひとつの海をつくるように。

68 歳の杉本は世界は終わると信じて疑わないと言い切るけど、ご本人は新しい能舞台と能作品を作ろうとしてたり、つやつやして元気で、死ななそう。楽観主義者 は楽観でいるために悲観を極めるらしい。なんかその裏腹感といい、世界は滑稽で、それゆえに破れがあって、たぶん完全なユートピアにも悲劇にもしばらく至 らない。閉館ぎりぎりに案外混み合う中展示を観ていた人たちが、陳腐ではない何かを世界にもたらしてくれるといいなと思う。

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2565.htm

昨日見た夢と、学びのトラウマ。

明 け方に夢を見た。なぜか私は「卒業式で卒業生を代表して学校生活の思い出と教師への感謝を述べるスピーチをする代表」に選ばれていた。軽い気持ちで引き受 けて、卒業式でスピーチするものだと思っていたら、その数日前の何かの記念の会で、いきなりスピーチは今日だと言われた。大きなホールで、全校生徒が集 まっている。いつも前日とかに追い込むので、全く何の用意をしていない上に、学校生活の行事の思い出など全く思い出せない。まして教師への感謝もほとんど 持っていないのに、無理やりアドリブでひねり出さなければならない。休み時間の10分でなんとか構成を無理やり考え、笑いを取る方向にした。さあ壇上で用 意してね、と言われた時にトイレに行きたくなり、行列をかき分けて個室に駆け込んだら、尿が出ない…というところで目が覚めた。

ほ ぼ定期的に学校や教育に関する悪夢を見る。出席が足りないとか、受験時間に間に合わないとか、とにかく時間がない、という夢で、うなされて胃液の逆流によ る咳と胸焼けで目が覚める。目が覚めてもしばらく現実と区別がつかないほど夢はリアルで、もう学校に行かなくていい、試験を受けなくていい身なのだ、とい うことを再三確認し、その度に心からほっとする。

夢の内容は事実ではない。出席が足りなかったことなど ないし、遅刻さえあんまりしたことかない。受験には落ちたことがなく、試験は成績はともかくほとんど一度で通している。でも不惑を越えてまでまだこのよう に、学校に行かなくていいということを確認してほっとする、というのは、それらのことは余程無理して達成されていたのだなと思うし、あまり学習や教育とい うもの自体に良い感覚を持てていないということに改めて気づく。

中学受験のための塾通い以来、教育とは 詰め込まれるもの、学びとはさせられるもので、私にとっての学習とは、これまで常に受験勉強のように、常に時間が足りず、常に間に合わせで付け焼き刃で、 時間までに無理して辻褄を合わせるようなものだったように思う。自分の興味関心と関係なく、時間内に出された問題に幅広く点数を取るための技術、それはそ れで役には立ったのだろうが、それは決して学問にはなり得ない、ということを改めて気づいて愕然とする。断片化された知識の山は学問にはなり得ないし、思 考のかえって邪魔になる。結局ひとは、自分が興味や関心を持っていることしか、本当には学べないのだ。

何かの役に立たないが自分が読みたい本をゆっくりと、自分のペースで読んでいると心からほっとする。この繰り返し見る夢は、教育と学ぶことに関するトラウマなのだなあと思って、もうそれは手放したいと考える。
フラワーエッセンスを選ぶとファイアウィードというエッセンスに反応が出た。この花の意味は破滅からの復興。「ファイヤーウィードは火災直後の荒廃した土地に咲き始め、大地に生命を蘇らせるばかりでなく、信じられないほどの美をも、もたらします」
「希望を持ちなさい、全てが失われたわけではありません。今はそう見えるとしても、決してそうではありません。」

押 し付けでなく、もう一度、自分の中からの意志で学ぶことがようやくできる時間が来たということなのだろう。この先に教師や指導者はいないが、自分の中から それらが現れ、導いてくれるだろう。それを信頼して、今は時間を自分に取り戻すべく、ただ希望に満ちてぼんやりと待つことにする。

福音書による、治療の3つの原則 〜「我が名はレギオン」

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治療のようなもの、関係性のようなものに携わっていると、しばしば深い藪の中で道を見失う。
そんなときにいつも立ち戻る原則がある。以前とある講義の中で聴いたものだ。いや、ほんとはいつもは無意識の底に沈み、忘れている。でも今、立ち戻りたいと思い、書いてみる。

福音書には、イエスが病気を治すやり方が3つ出てくる。

ひとつは、病人自身と話す。マルコによる福音書(5章25-34節)には、12年間出血の止まらない女性が出てくる。彼女はイエスの衣の裾にでも触れることができたなら自分の病気は治るのではないかと思い、群衆に紛れてイエスの裳裾に触れる。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言い、女性の出血は止まる。
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