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好きが先か、打ち込むが先か? 書評ー「最高齢プロフェッショナルの教え」

最高齢プロフェッショナルの教え

最高齢プロフェッショナルの教え

13歳以上90歳未満のすべての人におすすめしたい本。

特に就活・求職・休職中の若者に。

敬意を評してお名前とご職業を列挙してみます。目次から。敬称略。

91歳 「漫画家」やなせたかし

88歳 「パイロット」高橋淳

78歳 「ギター職人」矢入一男

96歳 「喫茶店店主」関口一郎

85歳 「落語家」桂米丸

83歳 「ライフセーバー」本間錦

93歳 「スキーヤー」高橋巌夫

89歳 「ピアニスト」室井摩耶子

82歳 「花火職人」小口昭三

84歳 「杜氏」継枝邑

90歳 「DJ」安藤延夫

84歳 「バーテンダー」山下達郎

51歳 「JRA騎手」安藤光彰

83歳 「洋樽職人」斎藤光雄

103歳 「声楽家」嘉納愛子

小飼さんも書いていましたが、まず肖像写真がすばらしい。

アラーキーが「男の顔面は女のヌードと同じ」という名言とともに「男の顔面」という写真集を出してたことを思い出しました。

この方々の表情をみると、年を重ねるにつれ、どういう姿勢で生きてきたのかが顔に刻まれるということが如実に伝わります。

この方たちの特徴を色々抽出してみました。

「好きを仕事に”した”人」

  ー パイロット、ギター職人、落語家、ピアニスト、JRA騎手、声楽家

「好きが仕事に”なった”人」

  ー ライフセーバー、スキーヤー、喫茶店店主、DJ

「やってみたら好きだった人」

  ー 洋樽職人、花火職人

「好きというほどでもないがただ打ち込んだ人」

  ー バーテンダー、杜氏、漫画家

バーテンダーの山崎さんは本当は医師になりたかったのに、戦後の混乱で断念。仕方なく駐留軍相手のバーテンダーの仕事について続けて65年。しかもお酒が飲めない、というのがすごい。

「それが好きで仕事に選んだ人」

  ー パイロット、落語家、ピアニスト、声楽家

「家業、もしくは家族の縁」

  ー ギター職人、JRA騎手、花火職人、洋樽職人

「なりゆき上」

  ー 漫画家、喫茶店店主、ライフセーバー、スキーヤー、杜氏、DJ

さすがにアーティスト系の方は好きで続けた人が多いけれど、その仕事とめぐりあったきっかけで案外多いのが「なりゆき上」。 

戦後の混乱の中で、希望の職を断念してついた仕事や、前職がうまくいかず始めたことなどが天職になったりしていることが意外に多い印象。時代背景もあるのでしょうが、案外「好きだから続けられた」というより「続けるために工夫を重ね、好きになった」という感じもあり。

「前職なし、ひとすじ」

  ー パイロット、ギター職人、落語家、ピアニスト、声楽家、JRA騎手、洋樽職人、花火職人

「前職あり」

  ー 漫画家、喫茶店店主、スキーヤー、杜氏、DJ、バーテンダー

「かけもち」

  ー ライフセーバー(電力関係)、スキーヤー(音楽プロデューサー)

ひとすじの方も多いのですが、前職ありの方々も結構いらっしゃいます。

「カフェ・ド・ランブル」店主の関口さんも、このお年で早稲田大学理工学部卒。当時ならエリート中のエリートです。でも戦後起こした映画機材会社でお金を持ち逃げされて倒産、その借金返済のために始めたコーヒー店が評判になり、工夫を重ねるうちに96歳。凄いです。

「今も納得していない、死ぬまで向上したい」ー 全員

ひとりひとりの言葉が珠玉なのですが、全員に共通するのが、向上心が並でないこと。とにかく妥協しない。研究し続けて、少しでももっといいものを、と工夫をやめない。

この方たち(騎手の安藤さんはちょっとお若いですが)の人生を見ると、「会社員で一生つとめあげて定年」という労働モデルは、戦前戦後から現代まで決してスタンダードというわけではなかったのでは、と思いました。好きを仕事にした人も、右肩上がりの良い時代だったからそれを続けられたわけではなさそうです。向上のための勇気がたえまなく彼らを突き動かして、不安になっている暇もない、といった感じ。

「向上心」と「欲」は表裏一体なのだろうと思います。細い尾根道みたいなもので、向上心が、あるとき欲に転んで転落してしまったりする。でも彼らはその紙一枚のような尾根道を、「面白い!」という思いを原動力にして、人への信頼というバランス棒でバランスをとりながら、今も軽々進んでいっているという感じがします。

来たるべき超高齢化社会には、「カッコいい年寄り」のロールモデルが必要。まさにそんな「カッコよすぎる人々」が満載の本。こんな感じで年をとれるなら、超長生きしたい、そんな風に思えます。

男の顔面

男の顔面

Serendipity ; Come into my life !

Serendipityという言葉がある。セレンディップの3人の王子の話をもとにした「偶然の幸運」みたいな意味で使われているけれども、本当はただの偶然だけでも幸運だけでもない。実は幸運を呼び込むための積極的な姿勢でもあり技術でもある。

そして、Serendipityの本質は、「間」にあると思う。

セレンディップの3人の王子は、実は自分から望んで旅に出たわけではない。父に言われた運命をひとまず受け入れ、未知の経験が自分たちを高めてくれると信じて、彼方の異国へと出発した。

賢い王子たちは、わき目もふらずに目的に向かうのではなくて、一見関係なさそうな出来事でもよく観察する。それでかえって危険な目にもあったりするが、自分たちが観たもの、考えたことを信じて、覚悟を決めて立ち向かう。

王子たちは困難な問題を、観察と思考と機転で次々に切り抜けるけれども、ひとつを乗り越えると次の問題が瞬く間にやってくる。しかし、彼らは不服を言うことなく、ただ受け入れて、問題に取り組む。そうすると、問題はなぜか、次の幸運の扉を開ける鍵になっていく。

人生では否応なく、次々に何かが起こる。望んでも望まなくても、出来事はひっきりなしにやってきて、私たちはその度喜んだり嘆いたりする。

でもSerendipityは実は、「間」で起こると思う。出来事と出来事の間。望むことと望まないこととの「間」。人と人との「間」。自分にボールが回ってきたら、ひとまず受け取って、「間」の、判断しない空間に投げ込んでみる。そうすると一見不幸に見えた出来事もそこで生まれ変わって、次の幸運を運んできてくれる。 

茂木健一郎氏はSerendipityのサイクルを「行動action」「気づき awareness」「受容 acceptance」の3つに分けた。しかし、実は一番難しいのがこの「受容」のステップなんじゃないかと思う。

でもたぶん、判断せずに受け入れた瞬間に、ものごとの質は変わる。望まないできごとが種になって、思いがけない幸運の芽が芽生える。それは一見遅いように見えて意外な早道を示してくれたり、無駄なように見えて実りを一番もたらしてくれたりする。だから視野も、心も広くもっておくと、いいことが多くなるんじゃないかと思う。

May serendipity bless on your way ☆

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Serendipity

Serendipity

零枚の原稿と、清掃と、鶴の祈り。【書評】「原稿零枚日記」(3)

前エントリより続き)

私が研修医の頃、いくつかの精神科単科の病院でアルバイトで当直をしていた。その中でもとりわけクラシカルな精神病院で、ある時患者さんの発熱で病棟に呼ばれた。
診察と指示をしたあとに、長期入院の患者さんたちに呼び止められ、少し話をした。
その中の50代くらいの一人の男性が、「あちこちが調子が悪い。腰も痛いのですが、院長先生の回診で言ったほうがいいですか」等心気的な感じでつらつらと訴えを言った。「調子が悪いのなら、先生に言ってもいいのではないですか」と言ったら、次の回診は実は来月なのだという。どうやらその病院では、当時慢性期病棟の回診は月1回くらいしかなかったらしく、たった5分ほど聞いていただけなのに、その患者さんは「こんなに長く話をきいてもらったのは初めてです。ここには9年、前の病院には16年入院を・・・」と言って泣きだしてしまった。

まだ若くて未熟な研修医だった私が、ただただ戸惑って言葉につまっていると、別のもう少し若い男性患者さんが、「先生、これあげるよ」といってタバコのフィルター部分で折った折り鶴をくれた。
タバコの根元の部分の紙なので、本当に小さな小さな鶴だった。1cm立方くらいにすっぽりおさまるくらいのもので、大量の抗精神病薬を服用して手もよく動かないだろうに、よくこんなに器用に折れるものだなあと感心した。「本当にもらっていいの?」と聞いたら、「たくさんあるからいいんだよ」とお菓子の箱に入った大量の小さな鶴たちを見せてくれた。私は小さな鶴を手のひらに乗せて、当直室へ戻った。
長期の入院で暇のある患者さんがそういうような「創作」を行うことは時々ある。多くは妄想的な絵や同じ言葉の羅列のような詩や文章が多いので、他者から注目されることはあまりない。彼の鶴はとても器用にできているほうだったが、おそらくスタッフからは、また鶴を折ってるわよ、何かの妄想かしらというようにみられていたのではないかと思う。若かった私は、彼の叶えられなかった願いの数が鶴の数なのではないか、などと思ってちょっと感傷的になったりした。

「零枚の原稿を書く」のも、汚れていないシャツを洗い続けるのも、タバコのフィルターで鶴を折り続けるのも、同じように社会的には何の生産性ももたらさない。しかし、それらの行動はやはり何らかの努力のあらわれであり、ある種祈りでもあるのではないか、と思う。
たとえばそれらの行為が、何らかの物質的、金銭的な価値を生むかというとまず生まないだろう。精神的な価値でさえ、見出すつもりがなければ見えないだろう。しかし深海魚のように普段の私たちの生活から見えない存在も、また深海の底で生きて呼吸をしているように、彼らは彼らの置かれた立場において可能なことを一生懸命していて、見る気をもって見ればそこにまた意味があると思う。

「衝動」は本来「表現」に向かう本性を持っているのだろうと思う。「衝動」が「表現」に向かうことが妨げられたとき、あるいは間違ったやりかたで向かってしまったとき、病気の種がまかれるのではないだろうかと思う。
彼らの表現された行為は、ある種回復への祈りでもあり、周囲の人間がひとりも気づかなかったとしても、神様がいるならばきっとそこに届いているだろう。でもできるなら、治療者は、少しでも神様の目線に立ってといったらおこがましいけれども、それらの行為の意味を見出して、彼らの努力を地上で活かせる方向を考えてみる、という姿勢が必要ではないかと思う。

彼の小さな鶴は私という未熟な一研修医に強い印象を残した。この人たちにもう悲しい思いはさせまい、この人たちが自由になるために自分は働こう、と願い、その決意のしるしとして、その小さな鶴を机にしまった。
もし、それ以来、私は患者さんたちの社会復帰運動に携わっています、ということであったら彼の鶴も浮かばれただろうけれども、残念ながらそうではない。5年くらいそれを大事にとってあったのだが、段々と仕事にも慣れ、人の話を聞き流すのがルーティンになっていき、最初の決意が薄れていったせいか、ある時なくなってしまった。不甲斐ない私を見切って、鶴は天へ飛んでいったのだろう。鶴がいなくなってから、私は病院の仕事で疲れ果てたり、喘息になったり、色々な分野をさまよってみたり、と糸の切れた状態で数年間ダッチロールしていたが、徘徊にもまた慣れてきてしまった。

私がフィリップ・ピネルのように、あの患者さんたちにまた出会い、彼らを誇らしく病棟から解放することは、今後もないと思う。それはおそらく他の素晴らしい先生たちが私より早く、立派に行うことだろう。私は何の見える結果も出してはいないけれど、目指す方向は、そう変わらないと思う。私の“原稿”もまた見えない、零枚のままだけれども、でも、書いている、と言える。私に何か具体的にできること、行うべきことがあれば、あの鶴は変容した姿で戻ってくる気がする。それまでは零枚でもいいから原稿を書き続けていよう、書こう、という気持ちだけは持っていよう、と思う。そのうち誰かが見えるものに仕立ててくれるかもしれない、そんな気でいる。

(おわり)

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零枚の原稿と、清掃と、鶴の祈り。【書評】「原稿零枚日記」(2)

前エントリより続き)

懸命な努力が、社会に称賛される結果という意味では実を結ばないことは多々ある。しかしそれはやはり努力なのだろうと思う。

先日、月1回相談に行っている知的障害者の作業所で、50代の男性の利用者さんの相談を受けた。
若いころから小さな工場でずっと雇用されていて、旋盤を使って部品を作っていたが、数年前に機械化されてからは、彼にできる仕事はあまりなくなり、清掃係として作業着の洗濯や工場の清掃などをやっていたのだという。先代にはかわいがられていたようだが、折しもの不況でついに去年解雇された。もともと働いていたので、何とかもう一度就労につなげたいと作業所スタッフは思っているのだが、作業の際に間違いを指摘すると口答えをする、面接で想定外の質問が出ると即座に「できません」と言うので落ちてしまう、もうちょっと協調性をもてないだろうかという相談だった。

日常生活を聞いてみると、判で押したように同じ生活サイクルをしている。作業所には一定の割合で必ずそういう人がいる。毎日同じ時間に家を出て、また帰宅する。作業所の帰りにはスーパーで必ず乳酸菌飲料を買う。理由を問うと「ミルミルはからだにいいからです」と言う。決まった日に書店に行き、鉄道雑誌を定期購読している。日曜日はプールに行く。「水泳はからだにいいからです」と彼は行動の理由を語る。
したい仕事はありますか?と問うと、「清掃の仕事がしたいです」と語る。しかし、ご家族に聞いてみると、彼は一生懸命やりはするが、ごみや汚れが残ったままであったり、どこまでやればいいのかよくわからないようだ、若いころから掃除はあまり得意ではなかった、という。
それに、と彼の家族が言うには、「最近兄のお金遣いが荒いのです。それも、乳製品を大量に買ったり、業務用洗剤を大量に買ったり、よくわからないものをたくさん買っているのです」という。スタッフも、「そういえば去年は手の皮膚がぼろぼろで、皮膚科に行ってもらったのです。最近よくなりましたけど」と言う。

彼に「洗剤で何をしているのか」と聞いたら、「服は業務用洗剤でまず汚れを落としてから、普通の洗剤で洗うのです」と言う。「トイレはこれこれの洗剤でまず洗ってから、これで拭いて掃除をするのです」と説明してくれた。
よくよく聞いてみると、彼は以前会社にいたときに他の従業員の作業服を洗っていた洗剤を使い、同じ手順で自分の服も洗っているようだった。また、トイレ清掃に関しても、会社にいたときに習った通りに行っているらしい。
何となく、解雇された今も、彼は清掃係を務めているつもりなのではないか、という気がした。手の皮膚をぼろぼろにしてまで大して汚れてもいないシャツを業務用の強力洗剤で洗い続け、判で押したように「清掃の仕事をやりたいのです」と答えるのは、他の選択肢がなかったことと、何らかの「良きこと」、または社会的な活動をしていたいという衝動がこういうかたちであらわれているのかもしれないと思った。
会社時代に教えられた清掃の手順を彼が続けているのは、一度教えられた流れを容易には変えることができない、ということであり、逆に言えば、それを忠実に守っていくことができる、ということでもある。他の手掛かりを考えてみると、乳酸菌飲料を必ず買うのも、日曜日にプールに行き続けているのも、誰かが「それはいいことだ」と教えたからだろうと推測した。作業で間違いを指摘すると口答えをする、というのは、初めに教えた人の手順を踏襲していて、本人はそれを説明しようとしているのではないかと考えた。

未だ「清掃係」を遂行中の彼のモードを切り替えるには、「上書き」をする必要がある。清掃はやはりクオリティを問われるので、いかに一生懸命やろうと彼は清掃には向いていないと思われる。彼の場合はよくよく聞いてみると、他に明らかに得意な分野があったので、そちらを伸ばす方向で就労支援センターの訓練に行ってもらうことを提案してみた。ここでも彼は即座に「できません」と答えたが、「『やってみます』と言ってみるのはどうですか?」と聞いてみたら、また即座に「やってみます」と答えた。スタッフには、作業や行動などを修正したほうがよい場合には、できていないことを指摘するよりは、最初から正しい手順を1ステップずつ示して「上書き」をすることを勧めて、スタッフもその方向でやってみます、と言ってくれた。

退職後に彼が自宅で人知れず続けていた「清掃作業」は、社会的には何の意味もないととられてもおかしくない。公園の掃除などであれば「感心な人」と言われたかもしれないが、自宅で汚れてもいないシャツを強力洗剤で二度洗いするのは、あまり合理的な行為とはいえない。けれども、それらは本当に無為で無駄な行動でしかないのだろうか?

次エントリへ続く)

零枚の原稿と、清掃と、鶴の祈り。【書評】「原稿零枚日記」(1)

小川洋子「原稿零枚日記」を読んだ。小川洋子はもともと好きで、誰もがどこかに持っている日常からの逃避の本能、というか、当人なりに一生懸命生きているのにどこかずれていく、というような過程を、美しく硬筆な言葉で淡々と描写していく作家だと思っている。彼女の視点は、いつもどこか観察記録のように冷静で、時に冷酷なほど涼しげなのに、どこかいつもひとひらの温かさがある。

今回の「原稿零枚日記」は、寡作な中年の女性作家が主人公である。
独居で、母親がいるが、意識障害のまま入院を続けている。近所の小学校の運動会に潜り込んで見学するのが唯一の趣味で、物語をあらすじにするのが唯一の特技である。彼女がまとめるあらすじは人を引き込む力を持っていて、あらすじ作成では一定の評価を受けている。あらすじ教室の講師を務めている。原稿が書けず作家としての活動がままならないので、役所から何らかの支援を受けているらしい。生活改善課の担当職員が月に1回やってくる。彼女が自分の日常を記した26日分の日記という形で物語が進行していく。

しかし、彼女の原稿は、遅々として進まないのである。代わりに彼女にとっては日常である、奇妙な非日常的異界が展開されていく。苔料理専門店に迷い込んだり、近所の運動会に潜り込んで借り物競走に出たり、有名作家から最後の願いとして頼まれてあらすじを読んだりしている。そして原稿はいつも零枚なのである。
彼女自身は原稿を書こうと取材をし、努力をし、日常を懸命に生きているつもりでいる。ただ、懸命に、地味に、普通に生きようとするほど、日常の少しわきにあるねじれた異界が口を開けて、彼女を追いかけてくる。

日常的なものからずれて生きている存在たちへの、著者の視点はあくまで優しい。この本には深海の生物の生態がいくつか出てくる。チョウチンアンコウやドウケツエビなどちょっと摩訶不思議な生態の生物たちなのだが、主人公の「私」も限りなく深海の生物のような「異形」感に満ちている。しかし、日常を必死にやりくりする世間の人たちも、深海の生物のように意味不明な行動をしている彼女も、同じように、自分の生を、ただ生きようとしているのである。
著者はNHK BSの週刊ブックレビューのインタビューで、「この人は零枚の原稿を書き続けているのかもしれないと、書いているうちに、思えてきたのです」と語っていた。

次エントリへ続く)