monologue

この1か月色々なことから離れてみて、いかに自分の頭が今までおかしかったか、という感じがしていて、ようやく正気に返ったような、そんな感じだ。この数年仕事は片手間にしかしていないのに、休養をちゃんとしていたかというとやっぱりそんなにできておらず、かといって仕事以外の大事なこともほとんどできていない。

医療って人を助けることではない。医師の役割は特にそうだなと思う。看護はまた違うかもしれない。でも基本的には、その場の限界と適切を見極めて、その場の最適な仕事をすることなのだ。誰かを慰めること、苦痛を和らげること、優しくすることはその範囲において織り交ぜるものであって、それが先に来てはいけない。

というより、愛は存在の深みにあるものであって、過保護な母のようにひけらかして他者を子ども扱いすることではない。

そもそも自分は人助けに向くオープンさとか、おおらかさとか、温かさとか、そういうものに欠けているように思う。むしろ公正さとか合理性とか最適化とか、そういうものへの指向性が強いのに、人助けとか役に立つとか優しくあることへの義務に乗っ取られてしまったのは、自分が女性に生まれて、この社会が女性に求めるものを、生き延びるために知らず知らず取り入れ優先しまったからである気がする。この社会でどう生きればいいのかとか、数十年生きてもさっぱりわからないんだけれども、N国とか見てるともうむしろなんでもありなのかなと思い、絶望するとともにほっとする。なんかもうなんでもありだから堂々と生きていいや、みたいな。どうせあとそんなに生きないし、のような。

公でも私でも、人の苦痛を和らげたい、救いたい、という強迫衝動みたいなものに無意識的に駆り立てられたのは、自分がずっと苦しかったからだと思った。助けなきゃ、ということでもなく、ただ見ていられない、という感じだったんだと思うが、他者が手を出しても通るべき過程が短縮されるわけじゃない。まして、嫌でたまらないのに義務で出す手は、握った方もその冷たさに心が冷えるだろう。

今自分の時間を異質な他者に侵されていないことが本当に幸せで、体が重くて思うにまかせなくても、木々の葉が光に反射してきらめく様子を見るだけで幸せである。ただいること、馬鹿話ができること、存在していることを幸せに感じる。食い荒らされていなければ、存在していることはそんなに痛みではないのだ。何もしていなくても、何も語らなくても、たくさんのことが為されている。

音楽より静寂、思想より沈黙、色彩や形態より余白、美より無にいたかっあのに、逆をやっていた。吐き出せる虚空が欲しかっただけだ。この場所は自分のものだから、たまった煙をここに吐き出している。