零枚の原稿と、清掃と、鶴の祈り。【書評】「原稿零枚日記」(2)

前エントリより続き)

懸命な努力が、社会に称賛される結果という意味では実を結ばないことは多々ある。しかしそれはやはり努力なのだろうと思う。

先日、月1回相談に行っている知的障害者の作業所で、50代の男性の利用者さんの相談を受けた。
若いころから小さな工場でずっと雇用されていて、旋盤を使って部品を作っていたが、数年前に機械化されてからは、彼にできる仕事はあまりなくなり、清掃係として作業着の洗濯や工場の清掃などをやっていたのだという。先代にはかわいがられていたようだが、折しもの不況でついに去年解雇された。もともと働いていたので、何とかもう一度就労につなげたいと作業所スタッフは思っているのだが、作業の際に間違いを指摘すると口答えをする、面接で想定外の質問が出ると即座に「できません」と言うので落ちてしまう、もうちょっと協調性をもてないだろうかという相談だった。

日常生活を聞いてみると、判で押したように同じ生活サイクルをしている。作業所には一定の割合で必ずそういう人がいる。毎日同じ時間に家を出て、また帰宅する。作業所の帰りにはスーパーで必ず乳酸菌飲料を買う。理由を問うと「ミルミルはからだにいいからです」と言う。決まった日に書店に行き、鉄道雑誌を定期購読している。日曜日はプールに行く。「水泳はからだにいいからです」と彼は行動の理由を語る。
したい仕事はありますか?と問うと、「清掃の仕事がしたいです」と語る。しかし、ご家族に聞いてみると、彼は一生懸命やりはするが、ごみや汚れが残ったままであったり、どこまでやればいいのかよくわからないようだ、若いころから掃除はあまり得意ではなかった、という。
それに、と彼の家族が言うには、「最近兄のお金遣いが荒いのです。それも、乳製品を大量に買ったり、業務用洗剤を大量に買ったり、よくわからないものをたくさん買っているのです」という。スタッフも、「そういえば去年は手の皮膚がぼろぼろで、皮膚科に行ってもらったのです。最近よくなりましたけど」と言う。

彼に「洗剤で何をしているのか」と聞いたら、「服は業務用洗剤でまず汚れを落としてから、普通の洗剤で洗うのです」と言う。「トイレはこれこれの洗剤でまず洗ってから、これで拭いて掃除をするのです」と説明してくれた。
よくよく聞いてみると、彼は以前会社にいたときに他の従業員の作業服を洗っていた洗剤を使い、同じ手順で自分の服も洗っているようだった。また、トイレ清掃に関しても、会社にいたときに習った通りに行っているらしい。
何となく、解雇された今も、彼は清掃係を務めているつもりなのではないか、という気がした。手の皮膚をぼろぼろにしてまで大して汚れてもいないシャツを業務用の強力洗剤で洗い続け、判で押したように「清掃の仕事をやりたいのです」と答えるのは、他の選択肢がなかったことと、何らかの「良きこと」、または社会的な活動をしていたいという衝動がこういうかたちであらわれているのかもしれないと思った。
会社時代に教えられた清掃の手順を彼が続けているのは、一度教えられた流れを容易には変えることができない、ということであり、逆に言えば、それを忠実に守っていくことができる、ということでもある。他の手掛かりを考えてみると、乳酸菌飲料を必ず買うのも、日曜日にプールに行き続けているのも、誰かが「それはいいことだ」と教えたからだろうと推測した。作業で間違いを指摘すると口答えをする、というのは、初めに教えた人の手順を踏襲していて、本人はそれを説明しようとしているのではないかと考えた。

未だ「清掃係」を遂行中の彼のモードを切り替えるには、「上書き」をする必要がある。清掃はやはりクオリティを問われるので、いかに一生懸命やろうと彼は清掃には向いていないと思われる。彼の場合はよくよく聞いてみると、他に明らかに得意な分野があったので、そちらを伸ばす方向で就労支援センターの訓練に行ってもらうことを提案してみた。ここでも彼は即座に「できません」と答えたが、「『やってみます』と言ってみるのはどうですか?」と聞いてみたら、また即座に「やってみます」と答えた。スタッフには、作業や行動などを修正したほうがよい場合には、できていないことを指摘するよりは、最初から正しい手順を1ステップずつ示して「上書き」をすることを勧めて、スタッフもその方向でやってみます、と言ってくれた。

退職後に彼が自宅で人知れず続けていた「清掃作業」は、社会的には何の意味もないととられてもおかしくない。公園の掃除などであれば「感心な人」と言われたかもしれないが、自宅で汚れてもいないシャツを強力洗剤で二度洗いするのは、あまり合理的な行為とはいえない。けれども、それらは本当に無為で無駄な行動でしかないのだろうか?

次エントリへ続く)