零枚の原稿と、清掃と、鶴の祈り。【書評】「原稿零枚日記」(3)

前エントリより続き)

私が研修医の頃、いくつかの精神科単科の病院でアルバイトで当直をしていた。その中でもとりわけクラシカルな精神病院で、ある時患者さんの発熱で病棟に呼ばれた。
診察と指示をしたあとに、長期入院の患者さんたちに呼び止められ、少し話をした。
その中の50代くらいの一人の男性が、「あちこちが調子が悪い。腰も痛いのですが、院長先生の回診で言ったほうがいいですか」等心気的な感じでつらつらと訴えを言った。「調子が悪いのなら、先生に言ってもいいのではないですか」と言ったら、次の回診は実は来月なのだという。どうやらその病院では、当時慢性期病棟の回診は月1回くらいしかなかったらしく、たった5分ほど聞いていただけなのに、その患者さんは「こんなに長く話をきいてもらったのは初めてです。ここには9年、前の病院には16年入院を・・・」と言って泣きだしてしまった。

まだ若くて未熟な研修医だった私が、ただただ戸惑って言葉につまっていると、別のもう少し若い男性患者さんが、「先生、これあげるよ」といってタバコのフィルター部分で折った折り鶴をくれた。
タバコの根元の部分の紙なので、本当に小さな小さな鶴だった。1cm立方くらいにすっぽりおさまるくらいのもので、大量の抗精神病薬を服用して手もよく動かないだろうに、よくこんなに器用に折れるものだなあと感心した。「本当にもらっていいの?」と聞いたら、「たくさんあるからいいんだよ」とお菓子の箱に入った大量の小さな鶴たちを見せてくれた。私は小さな鶴を手のひらに乗せて、当直室へ戻った。
長期の入院で暇のある患者さんがそういうような「創作」を行うことは時々ある。多くは妄想的な絵や同じ言葉の羅列のような詩や文章が多いので、他者から注目されることはあまりない。彼の鶴はとても器用にできているほうだったが、おそらくスタッフからは、また鶴を折ってるわよ、何かの妄想かしらというようにみられていたのではないかと思う。若かった私は、彼の叶えられなかった願いの数が鶴の数なのではないか、などと思ってちょっと感傷的になったりした。

「零枚の原稿を書く」のも、汚れていないシャツを洗い続けるのも、タバコのフィルターで鶴を折り続けるのも、同じように社会的には何の生産性ももたらさない。しかし、それらの行動はやはり何らかの努力のあらわれであり、ある種祈りでもあるのではないか、と思う。
たとえばそれらの行為が、何らかの物質的、金銭的な価値を生むかというとまず生まないだろう。精神的な価値でさえ、見出すつもりがなければ見えないだろう。しかし深海魚のように普段の私たちの生活から見えない存在も、また深海の底で生きて呼吸をしているように、彼らは彼らの置かれた立場において可能なことを一生懸命していて、見る気をもって見ればそこにまた意味があると思う。

「衝動」は本来「表現」に向かう本性を持っているのだろうと思う。「衝動」が「表現」に向かうことが妨げられたとき、あるいは間違ったやりかたで向かってしまったとき、病気の種がまかれるのではないだろうかと思う。
彼らの表現された行為は、ある種回復への祈りでもあり、周囲の人間がひとりも気づかなかったとしても、神様がいるならばきっとそこに届いているだろう。でもできるなら、治療者は、少しでも神様の目線に立ってといったらおこがましいけれども、それらの行為の意味を見出して、彼らの努力を地上で活かせる方向を考えてみる、という姿勢が必要ではないかと思う。

彼の小さな鶴は私という未熟な一研修医に強い印象を残した。この人たちにもう悲しい思いはさせまい、この人たちが自由になるために自分は働こう、と願い、その決意のしるしとして、その小さな鶴を机にしまった。
もし、それ以来、私は患者さんたちの社会復帰運動に携わっています、ということであったら彼の鶴も浮かばれただろうけれども、残念ながらそうではない。5年くらいそれを大事にとってあったのだが、段々と仕事にも慣れ、人の話を聞き流すのがルーティンになっていき、最初の決意が薄れていったせいか、ある時なくなってしまった。不甲斐ない私を見切って、鶴は天へ飛んでいったのだろう。鶴がいなくなってから、私は病院の仕事で疲れ果てたり、喘息になったり、色々な分野をさまよってみたり、と糸の切れた状態で数年間ダッチロールしていたが、徘徊にもまた慣れてきてしまった。

私がフィリップ・ピネルのように、あの患者さんたちにまた出会い、彼らを誇らしく病棟から解放することは、今後もないと思う。それはおそらく他の素晴らしい先生たちが私より早く、立派に行うことだろう。私は何の見える結果も出してはいないけれど、目指す方向は、そう変わらないと思う。私の“原稿”もまた見えない、零枚のままだけれども、でも、書いている、と言える。私に何か具体的にできること、行うべきことがあれば、あの鶴は変容した姿で戻ってくる気がする。それまでは零枚でもいいから原稿を書き続けていよう、書こう、という気持ちだけは持っていよう、と思う。そのうち誰かが見えるものに仕立ててくれるかもしれない、そんな気でいる。

(おわり)

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