薬 x 言葉 = EBM + 陰陽道 (2)

(前エントリより続き)

以来私は薬物療法にとても関心を持つようになった。ほんとうは創薬に携わりたいと思っていた。
ポール・ヤンセンという化学者がいる。今は大企業のヤンセンファーマの創立者である。
ヤンセンは1957年に抗精神病薬ハロペリドールを創ったのみならず、1986年にはピパンペロンから非定型抗精神病薬リスぺリドンを創出した。精神科医しかわからなくて申し訳ないけれども、この2剤がどれくらい精神科薬物療法史に大きな飛躍を生んだか、言葉で語れないくらいである。この2剤を世に出したヤンセンは、若い頃の私にはほとんど「ネ申」降臨だった。

ピパンペロンという薬はもはや絶滅寸前なのだけれど、不安焦燥を伴う軽い妄想には副作用も少なくかなり穏やかにおさめてくれる優れた薬剤だった。私の指導医たちはピパンペロンをほぼ「愛して」いた。ここでは詳しくは書かないけれどもkyupin先生のブログに詳しい。
ピパンペロンの副作用の少なさや有用性に着目して、幻覚妄想により効果を強めたリスぺリドンを創りだしたことは、ほんとうに炯眼だと思う。ヤンセンは、化学物質に関して優れた目をもった人なのだろうと思う。1つの発見は偶然でも起きるが、2つ目の発見は優れた観察がなければ起こらないと思う。

最近の薬はこういう観察から入ることなく、何とか基を少しいじって副作用が10%減りました、効果は同等です、というようなものが多いような気がする。ひとつのグループにずらりと同効薬が並ぶ。こういうのを” Me too drug “と呼んでいる。あまりにも「ま、このへんでウチも出しとくかな」なMe too感があふれた薬は使ってみてもなんとなくイマイチである。Chemistにはぜひもっとがんばってほしい。
でもMe too drugsですら、精神科のような繊細な領域にはやはり感触の差があって、やはり君は世に出るべくして生まれてきたのだね!と思うことがある。選択肢が多いのはややこしいけれども、やはりないよりはいいことだと思う。薬だって人間と一緒だ。生まれてきたからにはなにか輝く立ち位置があるはずである。その質をいつも知りたいと思っている。

「頭とハサミは使いよう」というけれども、精神科医にとっては「言葉と薬は使いよう」である。というか、その2つしか通常の病院診療ではツールがないのである。もっとあったらいいのだけれども、通常はその2つの「不器用な武器」の使いようを地道に磨いていくしかない。
薬は副作用もあるし、不便で不完全なアイテムである。特に人間の精神に対しては、繊細な織りの入った和紙の上に大きなペンキの刷毛で書を描くような、いらいらするほど大味なものでしかない。けれども、今ある道具を使うほかない。書きたいものに合わせて少しでも近い刷毛を選んで、細心の注意を払って書く努力をするのが、こちらの仕事である。
上記の患者さんのように、人間の精神はそれが活動するための物質的な基盤というものは、やはりある。そして、その人の精神が再び輝き出すために、脳および体の状態の微妙なバランスを調整するには、繊細に感じ取ろうとする努力と謙虚さ、その人の精神と身体への敬意が必要である。さらに言えば、治療の道具として使われる薬自体への敬意があったらいいと思う。それがあれば、いい加減な使い方にはならないはずだ。イチローがグラブを、音楽家が楽器を大事にするのと同じことだと思う。

EBM、Evidence Based Medicineは、その治療や薬が、色々な人に平均的にどのような実績をなすことができたか教えてくれる。若くて経験が限られているが、日々の患者さんの少なくとも安全を守らなければならない医師にとっては、転ばぬ先の杖のように「無難な」治療を教えてくれる。
でも目の前の患者さんにとって何が最短で最善の道かは、Evidenceも含めた知識も総動員した上、五感もフルに働かせてその人の状態を感じ取り、薬の持っている「性質」も感じ取るようにして、個別に考えて判断する必要がある。それが医師の真の「裁量」であり「匙加減」だと思うし、良医は必ず、この薬はこういう状態の人にいい、という印象を自分の経験の中に蓄積している。
EBMは大きな意味があるけど、もし治療の手順がどんな人にも同じように標準アルゴリズム化して、それ通りの順序と時間で行わなければならないという縛りができたら、治療というものは行う側も受ける側にとっても、かなり厳しいものになるだろうと思う。実際ヨーロッパではEUの成立にともなって、そういう標準化の動きもあるようである。

急に怪しげな言い方になるが、「陰陽師」にたとえると、私は(少なくとも精神科医にとって)処方箋は「式神」だと思うし、言葉はまさに「呪(しゅ)」だと思う。
式神はその式神の質を把握して効果的な場面で飛ばす必要があるし、それすらも「呪」による”場の設定”次第で働き方も変わってくる。薬と言葉は相乗的な効果を持つ。だから言葉にも気をつけなければいけないなと思う。薬は物質だから、誰が出しても忠実に同じ動きをしようとするけれど、働く”場”は人間の中である。人間の精神は言葉や感情によって影響も受けるから、同じ薬でも”場の設定”次第で、効果も違ってきてもおかしくない。
ポール・ヤンセンは陰陽師だったのか?まあたぶん違うでしょう。でも事物をよく観察して性質を知ろうとした点で、真の科学者だし、一種の錬金術師だったかもしれないとも思う。ドクター(特に若いドクター)や薬剤師の皆様、化学者の方々はそれくらいのMagicを扱っていると思ってやってほしい、気がする。

ある代替医療の治療家が、「医者は名誉の廃業をめざすべきだ」と言っていた。要は、治療する病気がなくなるくらいの世を目指せということだ。知り合いの歯科医からその言葉を聞いたときに、私自身はその通りだと思った。内科がなくなったら皆が困ると思うけど、精神医療は、なしでやれるなら、ないほうがいいと思っている(現にイタリアでは長期入院をさせる精神病院はなくなった。)。だから、今後その時が来たら、いつでも違う仕事に移るつもりはある。
最近、精神医療の排斥キャンペーンをちらほら目にするが、これらは精神医療における薬物療法の害を主に主張しているようである。それはまったく指摘の通りの現状である。ただ、精神科にかかろうと自ら思うくらいに追い詰められた人たちに、最近、精神医療の排斥キャンペーンをちらほら目にするが、これらは精神医療における薬物療法の害を主に主張しているようである。それはまったく指摘の通りの現状である。ただ、精神科にかかろうと自ら思うくらいに追い詰められた人たちに、代わりに何をすることができるのか、その議論はあまりされていないようだ。

とにかくまずは価値判断なしに、その人が懸命に生きてきたという、そのこと自体に耳を傾けること、そのことだけでもその人はかなり救われる。誰でも皆不完全だし誤ったこともするから、批判はしないで、まずはその人がしている努力について、聞いてほしい。薬は医者しか使えないけれども、言葉の力は、もちろん精神科医だけのものではない。誰でも平等に使うことができる。言葉を、「呪い」にするか「救い」にするかは、ほんとうに選べるのである。
世の中のすみずみまでそんな力が満ちて、精神科の看板を下ろすときが来たら、私は喜んで次の職を探す用意ができている。第一候補は占い師か陰陽師かな。似たようなものかと思うので、転職しやすいかな、と(^ ^;)。