2013年の後半に読んだ本の中で、もっとも感銘を受けた本、それが「もう独りにしないで―解離を背景にもつ精神科医の摂食障害からの回復」(まさきまほこ、星和書店)だ。
当事者視点からの個人史はたくさんある。だが、この本の出色な点は、幼少時の被虐待当事者としての半生の追体験と、治療者の観点から自身の回復過程の詳細な分析が並列していることだ。学生時代から幼少時へ、急に飛んだりする回想部分。リアリティのある解離と摂食障害の体験と治療者としての明晰な視点。この本の構成自体が、彼女の解離の構造のようにも思えてくる。
解離とは、過去のストレス場面が急に想起され、恐怖反応が起きたり、記憶が途切れてしまう状態である。「私」が一貫した私でいられなくなる。結局のところ、精神科外来に来る人たちは、自分を見失った人たちである。こころを病むのは、私が私ではないものを消化し、乗り越えきれなかった結果であると思う。
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問うや問わずや、人生の意味
前回、依存症のことを書いた。依存症の自己治療仮説について紹介し、「薬物はあなたに何をもたらしてくれましたか?」と問うことが治療において重要な問いであることを紹介した。つまり、薬物を使っていた「意味」について問うということである。
「意味」について問うということについて考えていたら、私が若年アルコール依存症者のプログラムを担当していたときに出会った、対照的なふたりを思い出した。
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依存するからだ、依存できないこころ
「人はなぜ依存症になるのかー自己治療としてのアディクション」(星和書店)を読んだ。アメリカの薬物依存症治療のエキスパートであるカンツィアンらの原著を、日本における第一人者である松本俊彦先生が翻訳したものである。
この本では、「薬物依存症は感情的苦痛を和らげるための自己治療の試みである」という「自己治療仮説」について述べられている。
私が興味をもって読んだのは、彼らは快楽追求のためというよりはむしろ、感情的苦痛を和らげるために、薬物を「選択」して使用している、ということであった。たとえば攻撃性と怒りの感情が激しい人はヘロインなどのオピエートを好んで使用する。ひりひりするような怒りを何とかコントロールして、人間関係を丸く収めようとする。アルコールを好む人は、不安が強く、対人緊張を和らげ快活な自分を演出するために飲酒する。もともとうつ病や不安障害、ADHDなどの精神障害が併存している人も、一定の割合で存在する。ここには、「精神的問題への対処としての、死にものぐるいの自助努力」としての薬物依存症の像がみえてくる。
薄暮のロードマップ― 書評+α「患者から早く死なせてほしいと言われたらどうしますか?」
人は誰でも死ぬ。それはいわば卒業のようなものであり、学校に永遠にいられないのと同じく、果てしなく続くように思える日常生活の先に、必ず死というプロセスがある。健康なとき、私たちは普段の生活の中でそれを意識することはほとんどない。しかし治癒が難しい病や加齢などで、必ずそのときは来るのであり、しかもその人にとって必ず初めてであり、そして1度限りの体験である。周囲の家族も含めて、多くの場合不安となり、ただただ困惑することが、ある意味自然な反応であると思う。
著者は病院でのホスピス勤務を経て現在在宅診療を専門に行っている緩和ケア医であり、数多い看取りを行ってきた、いわば「終末のエキスパート」である。医師であれば一般の生活者よりは、多くの死に立ち会う。多くの科では未だそれは「敗北」、もしくは仕方なく受け入れるものであるが、著者は、いずれやってくる生命の自然な過程としてその時間に寄り添う。
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病気と健康と医療を巡る周辺
医療と前よりは距離をとっている今、色々思うところがあって、少しまとめたいと思う。
まず、病気とは何なのか、よくわからなくなってきた。精神科外来には、いわゆる診断基準で定義された「病気」とは言えない相談がよく持ち込まれる。それらはその時点では「病気」というより「悩み」や「心配」だったりし、それは診療所で健康保険を使って診るべきものなのかどうなのか、などと考えたりする。ただそれが「病気」に進展しない、と断言もできず、なんとなく相談に乗りつつ、引っ張ったりもする。しかしそれが良く作用して、来た人が幸せになるかというと、かえって医療という枠組みへの依存につながってしまったこともあったと思う。私自身は薬をたくさん出すのは好まないが、昨今の多剤併用の問題も、本来は医療で診られない問題を医療で扱おうと努力するとそうなってしまうのだと思う。中途半端な「医療」や「支援」はかえって毒だなあと今では思う。そういう意味で、反精神医学的な思想には、一部ではあるが共感もする。「悩みは薬では治らないし、病院に来ても医者が治せるはずもない」。よく考えてみれば当たり前のことだ。


