問うや問わずや、人生の意味

前回、依存症のことを書いた。依存症の自己治療仮説について紹介し、「薬物はあなたに何をもたらしてくれましたか?」と問うことが治療において重要な問いであることを紹介した。つまり、薬物を使っていた「意味」について問うということである。
「意味」について問うということについて考えていたら、私が若年アルコール依存症者のプログラムを担当していたときに出会った、対照的なふたりを思い出した。
ひとりは、高学歴の、聡明な若い男性。私がアルコール依存症プログラムを担当していたときに、「何か良い本はないですか?」と尋ねてきたので、私は当時読んでいたヴィクトール・フランクルの本「それでも人生にイエスと言う」を紹介した。フランクルはユダヤ系精神科医であり、強制収容所での生活を生き延びた記録の「夜と霧」を書いた人である。後にその経験から、ロゴセラピーという、人生に意味を見出すことを援助するという心理療法を提案した。彼は自分が治療グループのリーダーであったときに、その本の内容をプログラムのテーマにしてくれた。
もうひとりは、高校中退のやはり若い男性。彼はほぼネグレクトに近いような生育歴があった。プログラム中は、いつもふざけていて、真面目に考えるべき時も常に冗談を言っていた。スタッフからは、「彼は断酒は無理だね」と思われていた。

さて、少なくとも数ヶ月後の結果から言うと、前者の男性は、優等生としてプログラムを卒業したが、退院後数ヶ月でスリップ(再飲酒)した。一度病院にあらわれて、酩酊した状態で色々愚痴をこぼして帰ったらしい。「身なりも荒れた感じでしたよ」と看護スタッフは語った。
後者の「チャラ男君」は、スリップも数回あったが、会社に就職した。もともと人なつこい性格の彼は、会社の人たちからも可愛がられ、断酒してまじめに働くようになった。2年後くらいにどこかで私の連絡先を見つけてメールをくれていたが、そこには「何で酒をやめられたのか俺もわからないです。でもコーラで食べる焼き肉もうまいよ!」と書かれていた。

前者の男性は知的には高く、まじめな人であったが、弱い部分を見せることが難しかった。後者の男性は、生育歴上色々な問題を抱えていたが、人に頼ることができた。平たく分析してしまえばそういうことになるが、何が断酒をさせるのかさせないのか、それはやはりわからない。
前者の彼の名誉のために書いておきたいが、依存症者がスリップするのはごく当たり前のことである。つまづいてもまた断酒をしようとしていけば、少しずつ飲まないでいられる期間が延びていく。途中経過だけでは判断することができない。その後の彼を知らないので、今は断酒していて、自分の人生をしっかり歩んでいるかもしれない。

少なくとも当座での、ではあるが、この二人の結末をみて、当時はまだ20代であった私は、人生の不条理のようなものを感じた。人生の意味を考えた者は頓挫し、考えなかった者が立ち直った。

知性は、自分の行動を振り返り、反省して変容する力とは直接関係ない。治療に真面目に取り組んだ人がスリップし、真面目には取り組まなかった人が断酒する。ならば、治療プログラムの意味何なのだろうか。
依存症の治療にかかわる医者の間では、「誰が酒をやめるのか、誰が不幸にも命を落とすのか、結局のところわからない」と当時言われていた(今もそうなのかは知らない)。これはしばしば、治療者にも抑うつ的な気分を引き起こす。

結局人生には意味があるのかないのか。

「不条理」と書いて、カミュを思い出した。「シーシュポスの神話」には、「本質的には不条理な生を、どう受け止めるべきか」ということが象徴的に書かれている。カミュの結論はこうである。「人生は意味がないからこそ、よりよく生きることができる」。人生に意味を追い求めること自体が、人を不自由にする。意味を求めればいずれは挫折して、自殺の誘惑にかられる。
対して、フランクルの見解は、「人間は意味を求めるものだ。どんな人生の経験にも必ず意味がある。だからこそ生き延びることができる」である。自らが過酷な体験を生き延びた人だけにその言葉は重い。

どう考えれば生きやすいのか。生きられるのか。結局のところ、どちらの立場をとるかはそれに尽きる。

まだ研修医だった頃に、救急救命センターで研修をしていた。あるとき、若い女性が過量服薬をして運ばれてきた。有名企業に勤める、高学歴の女性だった。精神科通院歴はなく、市販の薬をためて、服用したようであった。病院着時は意識不明であったが翌日には意識を取り戻した。
ICUから個室に移ったあと、消灯の直前、彼女のベッドサイドに座って、自殺企図の理由を聞いてみた。彼女は「親の言うとおりに進路を決め、就職して、何も考えなかった。これで生きている意味があるのだろうか、と思ったのです」と彼女は答えた。
未熟な若い医者であった私は、「人生に意味なんてありません。私たちはただ、生き物として生きているんです。だから好きに生きて、楽しめばいいんですよ」と言った。彼女の顔はぱっと晴れやかになり、「そうか、別に意味なんて、なくていいですよね」と言った。翌日、彼女は「お世話になりました」と笑顔で退院していった。
今から思えば、彼女の苦しみに深く耳も傾けず、若さゆえの軽率な発言であったと思う。顔から火が出るほど恥ずかしいが、若い医師の向こう見ずな一言は、このときは幸運に作用し、彼女には多少の希望をもたらしたようであった。これはカミュ的な、意味を追わない見方が、生真面目に考えすぎる人を解放して気楽にさせた例のように思う。

どちらも利があるように見えるこれらの考え方を、ここであえて統合する道を探ってみたい。

アップル創業者の故スティーブ・ジョブズの有名なスピーチがある。スタンフォード大学入学式でのもので、Youtube上で動画を観ることもできる。

大学がつまらなくて中退した彼は、その後も大学の授業にもぐりで出続けていた。そのひとつは、カリグラフィーの授業だった。カリグラフィーとは、英語のレタリングで、よくクリスマスカードなどで使われる装飾された字体である。日本ならさしずめ、ペン習字か書道の授業であろう。カリグラフィーは彼を魅了し、美しい字体を夢中で学んだという。
大学を中退して、カリグラフィーの授業にもぐりで出る、など普通ならばそんなことをして何になるの、と思われそうである。しかし、ジョブズは、あとでこの体験が、マッキントッシュの美しいフォントを発明するのに役だったと語っている。
そのときは、彼はそれが何の役に立つのかと考えず、ただカリグラフィーにひかれ、その美しさに没頭した。その経験は、あとで思いもよらないかたちで、武器になったのである。確かにフォントは美しくなくても、機能的には問題ない。ただ、同じ機能なら美しいものにひかれる、のが人間の常であり、マッキントッシュに根強いファンが生まれたのはこういう美的な部分における差異であろうと思う。
ジョブズは、この体験を「先を見通して点をつなぐことはできず、振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じなければならない」と語っている。

人生の意味も、そのときには見えない。後から振り返ることで、意味がつながって物語になるのである。経験の最中にその意味を見出すことはできない、と思ったほうがいい。こんなことをして何の意味があるのだろう、という問いには、とりあえず、「あとでわかるよ」を答えとしたい。
そして、その意味は他者が見出すことは決してできない。いつでも本人のみが見出すものだ。治療者にできるのは、治療者が意味を勝手につけることではなく、相談者が意味を見出す瞬間を焦らず待つのを助けることである。植物の世話にも似ている。いくら急かしても、時を待たなければ、果実はならない。
なので、人生の出来事は、起きた時点では意味はまだない。でもあとから意味が、立ち現れる。カミュとフランクルの間をとるには、そんなところではないかと思っている。

※これも「こころの科学」に載せさせていただいた文章。エピソードは雑多ですがわりと気に入っています。振り返って点をつなぐと絵が見えてくる、というのは最近ますます感じている。どんな不運も、振り返ってつなぐことで、いまを生きる力に変えることができる。でも一番大事なのは、いまに集中すること。ジョブズのように、意味がわからなくてもその瞬間に没頭できたことには、必ずあとで意味が現れる、と最近とみに思う。