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昨日見た夢と、学びのトラウマ。

明 け方に夢を見た。なぜか私は「卒業式で卒業生を代表して学校生活の思い出と教師への感謝を述べるスピーチをする代表」に選ばれていた。軽い気持ちで引き受 けて、卒業式でスピーチするものだと思っていたら、その数日前の何かの記念の会で、いきなりスピーチは今日だと言われた。大きなホールで、全校生徒が集 まっている。いつも前日とかに追い込むので、全く何の用意をしていない上に、学校生活の行事の思い出など全く思い出せない。まして教師への感謝もほとんど 持っていないのに、無理やりアドリブでひねり出さなければならない。休み時間の10分でなんとか構成を無理やり考え、笑いを取る方向にした。さあ壇上で用 意してね、と言われた時にトイレに行きたくなり、行列をかき分けて個室に駆け込んだら、尿が出ない…というところで目が覚めた。

ほ ぼ定期的に学校や教育に関する悪夢を見る。出席が足りないとか、受験時間に間に合わないとか、とにかく時間がない、という夢で、うなされて胃液の逆流によ る咳と胸焼けで目が覚める。目が覚めてもしばらく現実と区別がつかないほど夢はリアルで、もう学校に行かなくていい、試験を受けなくていい身なのだ、とい うことを再三確認し、その度に心からほっとする。

夢の内容は事実ではない。出席が足りなかったことなど ないし、遅刻さえあんまりしたことかない。受験には落ちたことがなく、試験は成績はともかくほとんど一度で通している。でも不惑を越えてまでまだこのよう に、学校に行かなくていいということを確認してほっとする、というのは、それらのことは余程無理して達成されていたのだなと思うし、あまり学習や教育とい うもの自体に良い感覚を持てていないということに改めて気づく。

中学受験のための塾通い以来、教育とは 詰め込まれるもの、学びとはさせられるもので、私にとっての学習とは、これまで常に受験勉強のように、常に時間が足りず、常に間に合わせで付け焼き刃で、 時間までに無理して辻褄を合わせるようなものだったように思う。自分の興味関心と関係なく、時間内に出された問題に幅広く点数を取るための技術、それはそ れで役には立ったのだろうが、それは決して学問にはなり得ない、ということを改めて気づいて愕然とする。断片化された知識の山は学問にはなり得ないし、思 考のかえって邪魔になる。結局ひとは、自分が興味や関心を持っていることしか、本当には学べないのだ。

何かの役に立たないが自分が読みたい本をゆっくりと、自分のペースで読んでいると心からほっとする。この繰り返し見る夢は、教育と学ぶことに関するトラウマなのだなあと思って、もうそれは手放したいと考える。
フラワーエッセンスを選ぶとファイアウィードというエッセンスに反応が出た。この花の意味は破滅からの復興。「ファイヤーウィードは火災直後の荒廃した土地に咲き始め、大地に生命を蘇らせるばかりでなく、信じられないほどの美をも、もたらします」
「希望を持ちなさい、全てが失われたわけではありません。今はそう見えるとしても、決してそうではありません。」

押 し付けでなく、もう一度、自分の中からの意志で学ぶことがようやくできる時間が来たということなのだろう。この先に教師や指導者はいないが、自分の中から それらが現れ、導いてくれるだろう。それを信頼して、今は時間を自分に取り戻すべく、ただ希望に満ちてぼんやりと待つことにする。

福音書による、治療の3つの原則 〜「我が名はレギオン」

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治療のようなもの、関係性のようなものに携わっていると、しばしば深い藪の中で道を見失う。
そんなときにいつも立ち戻る原則がある。以前とある講義の中で聴いたものだ。いや、ほんとはいつもは無意識の底に沈み、忘れている。でも今、立ち戻りたいと思い、書いてみる。

福音書には、イエスが病気を治すやり方が3つ出てくる。

ひとつは、病人自身と話す。マルコによる福音書(5章25-34節)には、12年間出血の止まらない女性が出てくる。彼女はイエスの衣の裾にでも触れることができたなら自分の病気は治るのではないかと思い、群衆に紛れてイエスの裳裾に触れる。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言い、女性の出血は止まる。
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ロックで読み解く貧困 (4) 労働の貧困 -XTC “Making Plans for Nigel”

ロックで読み解く貧困シリーズ、最終回です。実はこの最終回が書きたくて始めたのだった。最終回は、労働にまつわる貧困です。そして大好きなXTCの曲です。

細々と、一番長く続けている仕事がある。飽きっぽく腰の据わらない自分が、10年ほど続けている。とある自治体の知的障害者作業所の精神科相談である。
この仕事は、ほんとに若くて未熟なときに始めた。利用者の人たちは、そもそも口数が少ない人が多い上、多くない語彙の中からわずか数語に、言葉にならない思いを乗せてコミュニケーションをする。初めて会う人には緊張して、ますます言葉が減る。なので、どういう言葉を使うかとか、何をどういう風に尋ねるか、とか試行錯誤の上、内面よりも生活のことに絞ったほうが話しやすいという知見を得た。気分はどうかよりも、ご飯を何時に食べたかのほうが答えやすいし、生活と行動を丹念に聞き取ればそこに何らかの思いや意図が見えてくる。
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生きることを選ぶのは、生命自身である。

意識回復の被害者「助けて」と叫ぶ 相模原殺傷(朝日新聞デジタル) – Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160727-00000087-asahi-soci

悪意に満ちた凶器に傷つけられた瞬間、薄れる意識の中で、声に出せなかった「助けて!」の言葉。一瞬で凍りついて、脳のどこかにそのまましまわれたのだろうか。

出血した被害者は身体の血液の3/4を失っていたという。生命の維持がぎりぎりの中でも、削除されずに保存されていた言葉、「助けて」。治療を受けて意識を取り戻した瞬間に、解凍されて発された。それはほんとうに、生命の叫びだったのだと思う。そのことに心を動かされた。

生 きたいと思う生命は、生きたいのである。重複障害であるとか、重度心身障害であるとか、生産的であるかどうかは、生きることと全く関係がない。生きるかど うか選ぶのは、生命自身である。生命について、どのような生命が生きるべきかを誰かが理性で選ぶことは、本来的にできない。

そしていのちは「生き返った」とほっとして、「おなかがすいた」と思うのである。

障 害にかかわる領域にいると、意志疎通がまったくできなかったり、全介護の生活であったりして、このような生活の中でこの人は何を思っているのだろう、と思 うことは確かにある。そして障害が軽い人であれば、何がしかの「社会的生産」のレールに乗ることを支援したくなる誘惑が、援助者としてのわたしにはある。 「働かざる者食うべからず」という文化的構えは、教育や慣習によって、いかにも正当なように無意識に刷り込まれている。

しかしそれはほんとうに、生きている生命と関係がない。生命の生きたい衝動は、単に存在する。それが、いのちなんだなと思う。

重症の被害者を複数受け入れ迅速な治療を行った救急センターのスタッフの方々に敬意を表する。

「いつも笑顔でいると結局人は離れる」

朝、何気なくテレビをつけてたら、NHK「助けて!きわめびと」。大人の色気を磨きたい、という悩みのナビゲーターをIKKOさんがやってた。

容 姿や何かをからかわれても、いつも笑顔でやり過ごしてきた相談者に、「いつも笑顔でいるのが問題」と言い切ったIKKOさん。「悲しくても怒っててもそれ を押し隠して笑顔でいると、人は結局離れていくのよ」と。IKKOさんも、悲しくても笑顔で耐えていたところ、仕事がなくなった時期があったそう。きちん と主張することで、信頼も増えたとのこと。

何回も書いているけど、こういう話でいつも思い出すのっ て、黄帝内経の「喜びは心(しん)を傷(やぶ)る」という記述。喜びも過ぎれば空しくなっていくと。怒りは肝を、恐れは腎をやぶるけど、喜びもまた、それ をもって怒りや悲しみを無理に塗りつぶすような使い方をすれば、体と心を傷める。感情はどれも等しく、尊重すべきものだし、過度に偏ってはいけない。

私 もまた、何があってもいつも笑顔でいられないのは自分が至らないからだ、と思って、自責と反動としての他罰の間を揺れ動いてしまうほうなので、やはり感情 全てに目を向けて、断るとか、それは嫌だとか、伝えていかないといけないなと思った。なるべくなら上手く伝えたいけど、下手でも伝えないで抑圧するよりは 良いんだろうな。

あと番組中に出てきた、「自分が酔わなければ、人を酔わせられない」という言葉も心に残りました。自分“に”酔っていてはダメだけど、自分“が”酔うこと、自分を好きになること、自分を美しく振る舞わせ、悲しみも哀愁にまで高めること。それが色気。