悪意に満ちた凶器に傷つけられた瞬間、薄れる意識の中で、声に出せなかった「助けて!」の言葉。一瞬で凍りついて、脳のどこかにそのまましまわれたのだろうか。
出血した被害者は身体の血液の3/4を失っていたという。生命の維持がぎりぎりの中でも、削除されずに保存されていた言葉、「助けて」。治療を受けて意識を取り戻した瞬間に、解凍されて発された。それはほんとうに、生命の叫びだったのだと思う。そのことに心を動かされた。
生 きたいと思う生命は、生きたいのである。重複障害であるとか、重度心身障害であるとか、生産的であるかどうかは、生きることと全く関係がない。生きるかど うか選ぶのは、生命自身である。生命について、どのような生命が生きるべきかを誰かが理性で選ぶことは、本来的にできない。
そしていのちは「生き返った」とほっとして、「おなかがすいた」と思うのである。
障 害にかかわる領域にいると、意志疎通がまったくできなかったり、全介護の生活であったりして、このような生活の中でこの人は何を思っているのだろう、と思 うことは確かにある。そして障害が軽い人であれば、何がしかの「社会的生産」のレールに乗ることを支援したくなる誘惑が、援助者としてのわたしにはある。 「働かざる者食うべからず」という文化的構えは、教育や慣習によって、いかにも正当なように無意識に刷り込まれている。
しかしそれはほんとうに、生きている生命と関係がない。生命の生きたい衝動は、単に存在する。それが、いのちなんだなと思う。
重症の被害者を複数受け入れ迅速な治療を行った救急センターのスタッフの方々に敬意を表する。