福音書による、治療の3つの原則 〜「我が名はレギオン」

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治療のようなもの、関係性のようなものに携わっていると、しばしば深い藪の中で道を見失う。
そんなときにいつも立ち戻る原則がある。以前とある講義の中で聴いたものだ。いや、ほんとはいつもは無意識の底に沈み、忘れている。でも今、立ち戻りたいと思い、書いてみる。

福音書には、イエスが病気を治すやり方が3つ出てくる。

ひとつは、病人自身と話す。マルコによる福音書(5章25-34節)には、12年間出血の止まらない女性が出てくる。彼女はイエスの衣の裾にでも触れることができたなら自分の病気は治るのではないかと思い、群衆に紛れてイエスの裳裾に触れる。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言い、女性の出血は止まる。

この場面で、イエスは自分が病気を治したとは言わない。「あなたの信仰があなたを治した」と告げるのである。結局、病気や苦悩を治したり癒やしたりするのは、本人自身の治りたいという気持ちと決意、そしてそれが必ずもたらされると信じることなのだろう。それは必ず良い関係性とプロセスをもたらす。絶対的な誰かへすべて投じて委ねる信頼というよりは、むしろそれを選んだ自分自身を信頼するということなのだろうと思う。

2つめは、病人ではなく病人の周囲の人と話す。中風にかかった部下を持つ、ローマ軍の百人隊長は、カフェルナウムにやってきたイエスの評判を聞き、「どうか、彼を救ってください」と会いに来る。イエスは「私が行って、癒してあげよう」というが、百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエスをとどめる。イエスは「これほどの信仰を見たことがない」と言い、部下は癒される。(マタイによる福音書8章5-13節)
ここではイエスは本人に会うことはない。むしろ行っているのは周囲の人々への勇気づけであり、彼らの本人への気遣いとケアを癒しの力に変容させて、本人を間接的に力づけていると言える。家族や周りの人への説明と理解、勇気づけもまた、一見遠回りながら実体のある治療的な力だと言える。

そして3つ目は、病人に取り付いた悪霊と話すことである。(マルコによる福音書5章1-20節)「墓場をすみかとしており、たびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、、、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた」という狂気の人が出てくる。彼は、ガリラヤ湖から上がったイエスに「走り寄って拝し」、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」と、自分たちをこの土地から追い出さないようにと懇願する。イエスは「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言い、そして悪霊に「お前の名は何か」と尋ねる。
悪霊は「わが名はレギオン。なぜなら、われらは大ぜいだから」と答える。そして、「あの豚達に入らせてほしい」と、山の中腹で飼われている豚を示す。イエスが許可すると、悪霊は豚の中に入り、2000匹の豚達はいきなり走り出して崖から水の中に飛び込み、溺れ死ぬ。狂気に取り憑かれていた人は、正気に戻る。

レギオン(Legion)とは元は、約5千人の兵隊からなるローマの軍隊の名前たちのことであるらしい。
悪霊とは、「名前のない、大勢のもの」なのだと、クリスチャンの友人は言う。診断のつかないまま症状に苦しむ患者さんの病気がついに診断され、病名が分かると、患者さんが安心するということがある。病態や診断名を告げる、というのは医師患者コミュニケーションにおいては「Naming」という概念だったと思う。その症状はこれこれの病気である、ということが分かると安心するものである。名をつけるということは、形と概念を与えることであり、訳の分からない「魔」から、「病気」となる。そのことは、「なんだか訳のわからない何か」のままでいるよりも、人間にとってずっと安心することなのだろう。医療者は症状をもやもやとした不安の雲から、祓うべき明確な「魔」に変えるべく、診断学や治療について日々知らなければならない。そして今ここに働いていいる「魔」が分かったら、適切な祓い人(つまり適切な職種の人)を召喚する必要がある。

ここで、レギオンは「大勢なるもの」と自らについて答えている。つまり、魔はいつも複数なのである。複数が自分に取り付いている。大勢とは「十把一絡げ」であり、「有象無象」である。つまり、「自分という個でないもの」なのだろうと思う。病むということは、「私という個に、私でない、大勢のものが取り付いている」という状態であろう。
心理面において見るならば、自分がそうしたくないのに従うべきと考えられている“常識”とか価値観とか文化的慣習に、従わざるを得ない状態であったりするのだと思う。それらは、親や親戚などの家系的な環境や、生育した地域や学校など地縁の文化で醸成されたものであったり、あるいはマスコミやSNSなどの場で流れている“空気”を勝手に本人が読み込んでしまったものだったりする。
偏差値の高い学校に入り、“安定した”大企業に就職することが良い、だとか、自分の思いや考えを抑圧して場の空気を優先するのが良いとか、自分を犠牲にしても他者に仕えるのが良いとか、今やそういう無意識の慣習が社会の機能不全につながっているのは明らかなのに、依然として変わらない「常識」としてそれらの価値観は浮遊している。
ユングの言う「集合的無意識」や「元型」というのはそういう、「大勢が共有し投影した思考や価値観」ではないかと思う。もちろんそういったものが自分の個性の発現にとって、単に足枷となるわけでなく、社会的に支えてくれている面もある。しかし、病む人は多くの場合、それらと自分の本来のあり方が齟齬を来しているから病んでいるのであり、それは「私でない、大勢なるもの」が私に取り憑いている、と考えることもできるのではないかと思う。

翻って考えると、たとえばいわゆるパーソナリティ障害と診断されるような、急に感情が乱れて怒りで物を投げたり、荒れてしまう人は、そのときの状態は、ある意味「憑き物がついて」いると言えるのかもしれない。「考えに取り憑かれる」という言い方があるが、まさに考えは、取り憑くものなのである。そして取り憑く考え、というのは、自分自身で考え、生み出したものでなく、マスコミやネットで見られるような大勢の誰かが感情的に吐き出した、凡庸で不安や恐怖を与え、選択の自由を縛るようなものではないかと思う。

悪というのは必ず関係性の中でなされる。働きかける相手のない単独の悪は存在しない。悪魔は必ず関係性の中に自らの存在を知られないように身を隠し、互いを憎ませ、関係性の中で互いの血を吸い続ける。そして悪魔は健康で個性的な「私」にはやってくることはなく、凡庸な「大勢」の中に必ず現れる。
そして悪魔の祓い方はいつでも、そこに存在していることを見破ること、そして名前を呼ぶことである。相手をなじり責めたくなるとき、自分を罵り責めたくなるとき、相手や自分の中には実は悪魔はいない。ただ常に、悪魔は間にいるのである。憎しみのドラマに巻き込まれてしまえば悪魔の思うつぼである。それをただ見つめること、そして可能な限り「名づける」こと、それが長々とつづく不毛な戦いからの出口なのだろう。

以上、新約聖書における3つの治療原則、ひとつは自己信頼、ひとつは周囲の理解と協力を支援し勇気づけること、最後は悪魔を名づけ、巻き込まれないこと、について書いた。道に迷ったとき、時々思い出すとなんとなく役に立つような気がする。