「樹木は育成することのない
無数の芽を生み、
根をはり、枝や葉を拡げて
個体と種の保存にはあまりあるほどの
養分を吸収する。
樹木は、この溢れんばかりの過剰を
使うことも、享受することもなく自然に還すが
動物はこの溢れる養分を、自由で
嬉々としたみずからの運動に使用する。
このように自然は、その初源からの生命の
無限の展開にむけての秩序を奏でている。
物質としての束縛を少しずつ断ちきり、
やがて自らの姿を自由に変えていくのである。」 フリードリッヒ・フォン・シラー
先日東横線が止まってしまったので、みなとみらいから桜木町まで歩きました。
クイーンズスクエアの地下から上層階を貫通する巨大な吹き抜けの壁に、ドイツの詩人・劇作家のフリードリッヒ・フォン・シラーの言葉が刻まれています。
できた当時から何度も目にしているのですが、ここを通る度に一通り読んでしまいます。そして読む度にある種の感動と、少しの違和感をいつも感じます。
日々大量消費と経済活動が行われるこの大きなビジネス・コンプレックスの建設にあたって、一見不釣り合いにも見える、自然のいとなみの本質を記述するシラーの言葉を、なぜこんなにも大きく掲示したのでしょうか?
ちょっと気になって調べてみたら、この作品はアメリカの現代美術の作家 Joseph Kosuth の作品でした。
Kosuthといえば私には「椅子の人」。
” The Boundaries of the Limitless ” 1997
材質 白色ネオン管、黒御影石
サイズ(HxW) 22mx14m
*デンマーク王子アウグステンブルク公にあてた美学的なことに関する書簡第27号より一部を抜粋
*クイーンズスクエアのサイトより
http://www.qsy.co.jp/htm/f_art.htm
「ジョゼフ・コスース: 1945年アメリカ生まれ、アメリカ在住。コンセプチュアルアート(概念芸術)の第一人者として世界的にも著名なアーティストです。今回は、ベートーヴェンの交響曲第9番の詩の作者として有名なフリードリヒ・シラーのテキストを引用して、現代が直面するエコロジカルな問題を、ネオン管と石を用いて巧みに表現しています」
自然はいつも大量に創造し、大量に生産しています。植物は無事芽吹くことができるよりはるかに膨大な種を実らせ、魚は成魚にまでならない卵を大量に生みます。しかし、自然は産み出したものをただのごみにすることはありません。余った種や卵は他の生物に食べられたり、分解されてまた養分になったりすることで、次の生命の滋養となります。
人間はその大量生産だけを真似ていますが、人間の創るものはいつも不完全で、使われなかったものはごみになってしまいます。リサイクルされて次のもののために使われるには長い年月がかかりすぎたり、大量のエネルギーを消費しなければならなかったりで、自然に比べてなんて効率が悪いのでしょうか。でも、時には、人間の創ったものが、人間や他の生命にとっても何らかの希望をもたらすこともあります。
個人的には、言葉も同じではないかと思います。日々の会話や、blogやtwitterなどネット上で、さまざまな言葉が大量に流れていきます。それらはきちんと読まれるものもあり、ななめにしか読まれないものもあります。しかし、読まれない言葉も、ただ通り過ぎるようでいて、私たちの無意識に何らかの印象を残していきます。美しくやさしい言葉はそういう印象を残すし、毒を含んだ言葉は少し私たちの内部に毒を残していきます。
そういうさまざまの印象が集まって、C.G.Jungの言う、いわゆる集合的無意識を作っていくのではないかなーと思います。私たちは言葉や行動によって、集合的無意識の創造を日々行っているのではないかなあと。そう思うと、せめて可能な範囲で、読まれずに流れたとしても、ごみにならずに滋養になるような言葉を使っていきたいように思います。と思いながらくだらないtweetをまたしてしまうわけですけど。
この大きな御影石に書かれた言葉は、まるで大量消費社会への警告のようです。でもそれを消費と経済のセンターである場所に皮肉のように大きく掲げることで、何らかの自戒と贖罪を込めているのかしら、と深読みしてしまいました。
「物質としての束縛を少しずつ断ちきり、
やがて自らの姿を自由に変えていくのである」
そのようにありたいと切に願います。
ドイツ語の原文は下に。
Der Baum treibt unzahlige Kieme,
die unentwickelt verderben und
screckt weit mehr Wurzeln, Zweige und Blatter
nach Nahrung aus als zu Erhaltung seines Individuums
und seiner Gattung verwendet werden.
Was er von seiner verschwenderischen Fulle
ungebraucht und ungenossen dem Elementarreich zuruckgiebt
das darf das Lebendige in frohlicher
Bewegung verschweigen. So giebt uns die Natur
schon in ihrem materiellen Reich ein
Vorspiel des Unbegrenzten und hebt
hier schon zum Teil die Fesseln auf deren sie sich
im Reich der Form ganz und gar entledigt
FRIEDRICH VON SCHILLER