コラム」カテゴリーアーカイブ

Serendipity ; Come into my life !

Serendipityという言葉がある。セレンディップの3人の王子の話をもとにした「偶然の幸運」みたいな意味で使われているけれども、本当はただの偶然だけでも幸運だけでもない。実は幸運を呼び込むための積極的な姿勢でもあり技術でもある。

そして、Serendipityの本質は、「間」にあると思う。

セレンディップの3人の王子は、実は自分から望んで旅に出たわけではない。父に言われた運命をひとまず受け入れ、未知の経験が自分たちを高めてくれると信じて、彼方の異国へと出発した。

賢い王子たちは、わき目もふらずに目的に向かうのではなくて、一見関係なさそうな出来事でもよく観察する。それでかえって危険な目にもあったりするが、自分たちが観たもの、考えたことを信じて、覚悟を決めて立ち向かう。

王子たちは困難な問題を、観察と思考と機転で次々に切り抜けるけれども、ひとつを乗り越えると次の問題が瞬く間にやってくる。しかし、彼らは不服を言うことなく、ただ受け入れて、問題に取り組む。そうすると、問題はなぜか、次の幸運の扉を開ける鍵になっていく。

人生では否応なく、次々に何かが起こる。望んでも望まなくても、出来事はひっきりなしにやってきて、私たちはその度喜んだり嘆いたりする。

でもSerendipityは実は、「間」で起こると思う。出来事と出来事の間。望むことと望まないこととの「間」。人と人との「間」。自分にボールが回ってきたら、ひとまず受け取って、「間」の、判断しない空間に投げ込んでみる。そうすると一見不幸に見えた出来事もそこで生まれ変わって、次の幸運を運んできてくれる。 

茂木健一郎氏はSerendipityのサイクルを「行動action」「気づき awareness」「受容 acceptance」の3つに分けた。しかし、実は一番難しいのがこの「受容」のステップなんじゃないかと思う。

でもたぶん、判断せずに受け入れた瞬間に、ものごとの質は変わる。望まないできごとが種になって、思いがけない幸運の芽が芽生える。それは一見遅いように見えて意外な早道を示してくれたり、無駄なように見えて実りを一番もたらしてくれたりする。だから視野も、心も広くもっておくと、いいことが多くなるんじゃないかと思う。

May serendipity bless on your way ☆

f:id:frei-geist:20101126062724j:image

Serendipity

Serendipity

薬 x 言葉 = EBM + 陰陽道 (2)

(前エントリより続き)

以来私は薬物療法にとても関心を持つようになった。ほんとうは創薬に携わりたいと思っていた。
ポール・ヤンセンという化学者がいる。今は大企業のヤンセンファーマの創立者である。
ヤンセンは1957年に抗精神病薬ハロペリドールを創ったのみならず、1986年にはピパンペロンから非定型抗精神病薬リスぺリドンを創出した。精神科医しかわからなくて申し訳ないけれども、この2剤がどれくらい精神科薬物療法史に大きな飛躍を生んだか、言葉で語れないくらいである。この2剤を世に出したヤンセンは、若い頃の私にはほとんど「ネ申」降臨だった。

ピパンペロンという薬はもはや絶滅寸前なのだけれど、不安焦燥を伴う軽い妄想には副作用も少なくかなり穏やかにおさめてくれる優れた薬剤だった。私の指導医たちはピパンペロンをほぼ「愛して」いた。ここでは詳しくは書かないけれどもkyupin先生のブログに詳しい。
ピパンペロンの副作用の少なさや有用性に着目して、幻覚妄想により効果を強めたリスぺリドンを創りだしたことは、ほんとうに炯眼だと思う。ヤンセンは、化学物質に関して優れた目をもった人なのだろうと思う。1つの発見は偶然でも起きるが、2つ目の発見は優れた観察がなければ起こらないと思う。

最近の薬はこういう観察から入ることなく、何とか基を少しいじって副作用が10%減りました、効果は同等です、というようなものが多いような気がする。ひとつのグループにずらりと同効薬が並ぶ。こういうのを” Me too drug “と呼んでいる。あまりにも「ま、このへんでウチも出しとくかな」なMe too感があふれた薬は使ってみてもなんとなくイマイチである。Chemistにはぜひもっとがんばってほしい。
でもMe too drugsですら、精神科のような繊細な領域にはやはり感触の差があって、やはり君は世に出るべくして生まれてきたのだね!と思うことがある。選択肢が多いのはややこしいけれども、やはりないよりはいいことだと思う。薬だって人間と一緒だ。生まれてきたからにはなにか輝く立ち位置があるはずである。その質をいつも知りたいと思っている。

「頭とハサミは使いよう」というけれども、精神科医にとっては「言葉と薬は使いよう」である。というか、その2つしか通常の病院診療ではツールがないのである。もっとあったらいいのだけれども、通常はその2つの「不器用な武器」の使いようを地道に磨いていくしかない。
薬は副作用もあるし、不便で不完全なアイテムである。特に人間の精神に対しては、繊細な織りの入った和紙の上に大きなペンキの刷毛で書を描くような、いらいらするほど大味なものでしかない。けれども、今ある道具を使うほかない。書きたいものに合わせて少しでも近い刷毛を選んで、細心の注意を払って書く努力をするのが、こちらの仕事である。
上記の患者さんのように、人間の精神はそれが活動するための物質的な基盤というものは、やはりある。そして、その人の精神が再び輝き出すために、脳および体の状態の微妙なバランスを調整するには、繊細に感じ取ろうとする努力と謙虚さ、その人の精神と身体への敬意が必要である。さらに言えば、治療の道具として使われる薬自体への敬意があったらいいと思う。それがあれば、いい加減な使い方にはならないはずだ。イチローがグラブを、音楽家が楽器を大事にするのと同じことだと思う。

EBM、Evidence Based Medicineは、その治療や薬が、色々な人に平均的にどのような実績をなすことができたか教えてくれる。若くて経験が限られているが、日々の患者さんの少なくとも安全を守らなければならない医師にとっては、転ばぬ先の杖のように「無難な」治療を教えてくれる。
でも目の前の患者さんにとって何が最短で最善の道かは、Evidenceも含めた知識も総動員した上、五感もフルに働かせてその人の状態を感じ取り、薬の持っている「性質」も感じ取るようにして、個別に考えて判断する必要がある。それが医師の真の「裁量」であり「匙加減」だと思うし、良医は必ず、この薬はこういう状態の人にいい、という印象を自分の経験の中に蓄積している。
EBMは大きな意味があるけど、もし治療の手順がどんな人にも同じように標準アルゴリズム化して、それ通りの順序と時間で行わなければならないという縛りができたら、治療というものは行う側も受ける側にとっても、かなり厳しいものになるだろうと思う。実際ヨーロッパではEUの成立にともなって、そういう標準化の動きもあるようである。

急に怪しげな言い方になるが、「陰陽師」にたとえると、私は(少なくとも精神科医にとって)処方箋は「式神」だと思うし、言葉はまさに「呪(しゅ)」だと思う。
式神はその式神の質を把握して効果的な場面で飛ばす必要があるし、それすらも「呪」による”場の設定”次第で働き方も変わってくる。薬と言葉は相乗的な効果を持つ。だから言葉にも気をつけなければいけないなと思う。薬は物質だから、誰が出しても忠実に同じ動きをしようとするけれど、働く”場”は人間の中である。人間の精神は言葉や感情によって影響も受けるから、同じ薬でも”場の設定”次第で、効果も違ってきてもおかしくない。
ポール・ヤンセンは陰陽師だったのか?まあたぶん違うでしょう。でも事物をよく観察して性質を知ろうとした点で、真の科学者だし、一種の錬金術師だったかもしれないとも思う。ドクター(特に若いドクター)や薬剤師の皆様、化学者の方々はそれくらいのMagicを扱っていると思ってやってほしい、気がする。

ある代替医療の治療家が、「医者は名誉の廃業をめざすべきだ」と言っていた。要は、治療する病気がなくなるくらいの世を目指せということだ。知り合いの歯科医からその言葉を聞いたときに、私自身はその通りだと思った。内科がなくなったら皆が困ると思うけど、精神医療は、なしでやれるなら、ないほうがいいと思っている(現にイタリアでは長期入院をさせる精神病院はなくなった。)。だから、今後その時が来たら、いつでも違う仕事に移るつもりはある。
最近、精神医療の排斥キャンペーンをちらほら目にするが、これらは精神医療における薬物療法の害を主に主張しているようである。それはまったく指摘の通りの現状である。ただ、精神科にかかろうと自ら思うくらいに追い詰められた人たちに、最近、精神医療の排斥キャンペーンをちらほら目にするが、これらは精神医療における薬物療法の害を主に主張しているようである。それはまったく指摘の通りの現状である。ただ、精神科にかかろうと自ら思うくらいに追い詰められた人たちに、代わりに何をすることができるのか、その議論はあまりされていないようだ。

とにかくまずは価値判断なしに、その人が懸命に生きてきたという、そのこと自体に耳を傾けること、そのことだけでもその人はかなり救われる。誰でも皆不完全だし誤ったこともするから、批判はしないで、まずはその人がしている努力について、聞いてほしい。薬は医者しか使えないけれども、言葉の力は、もちろん精神科医だけのものではない。誰でも平等に使うことができる。言葉を、「呪い」にするか「救い」にするかは、ほんとうに選べるのである。
世の中のすみずみまでそんな力が満ちて、精神科の看板を下ろすときが来たら、私は喜んで次の職を探す用意ができている。第一候補は占い師か陰陽師かな。似たようなものかと思うので、転職しやすいかな、と(^ ^;)。

薬 x 言葉 = EBM + 陰陽道 (1)

研修医だった頃、指導医について薬物療法を学んだ。似たプロフィールの薬が大量にあるので、最初は本当にわけがわからなくて、まるで大量の外国語の単語のようだった。たまたま私の指導医たちは、経験豊富でしっかり薬物療法の体系ができている先生たちだったのと、チェックはしつつも「やってみたら?」と言ってくれる人たちであったので、割と早い段階からおそるおそる自分で処方を考えた。抗不安薬一つ出すのに、胃が痛くなるほどどれがいいか考えて、出したあともこれでベストだったのかどうか、本当に悩んでまた胃が痛くなった。

処方は実際使ってみるのが一番勉強になる。一番参考になるのは患者さんの表情で、合っているときは必ずやわらぐ。顔色も状態が悪い時はグレーに淀むけど、バラ色の輝きが出て、澄んでくる。声をかけたときの患者さんの一瞬の反応とか、体の無意識の動きから緊張が抜けてきて、話す内容や声のトーンが穏やかなものになるなどの変化がみられる。こういう判断は、別に医師だけが判断できる特殊能力ではなく、誰でも観ればわかる、ごく当たり前の能力である。検査値を読むのはトレーニングがいるけれど、精神的な回復はだれでも観て明らかなものである。

私が研修医の頃、ある中年の女性が、激しい興奮と被害妄想で入院してきた。私を罵り、暴れてひどい状態だったのだけれども、ハロペリドールという薬を処方してわりとすぐに被害妄想と興奮は治まり、穏やかになった。彼女はたぶん若い頃から病気自体はあったと思われたのだが、そう大きな問題にならなかったので、今回人生で初めて病院を受診し、初めて薬を飲んだ。ご主人がとても穏やかに彼女を見守ってくれる方だったので、ほどなくして退院となった。
その人が私の初めての外来患者さんとなった。入院中は毎日診れるので何かあったらすぐ対応できるけれども、外来では患者さんは帰ってしまう。次に来るのは短くても1週間後なので、病棟とはだいぶタイムスパンが異なる。デビューしたての若い医師にとってはかなりこわいものである。
その人は退院して1か月ほどは穏やかな状態で「特にかわりありません」と語っていたのだが、2ヶ月目に入るくらいから表情が険しくなってきて、私の問いかけへの答えもとげとげしくなってきた。そのうち「私の家を監視されてる」「主人に女がいる」等語りだしたので、これは再燃している、まずいなと不安になった。薬の量が足りないのかと思い、私はかなり焦ってセレネースを毎回増量したが、彼女の被害妄想と混乱はだんだんとエスカレートしていった。
3ヶ月目くらいになって、彼女はご主人と一緒に受診した。彼女はひとしきり被害妄想を語った後、混乱してわっと泣きだして、「実はお薬を飲んでいなかったんです」と告白した。今思えば恥ずかしいけれども、私はてっきり彼女は薬をきちんと飲んでいると思っていた(つまりそれだけの信頼関係があると思っていた)ので、薬の量が足りないと思って焦って増量してしまったのだが、単純に怠薬していたのである。ご主人は「私もてっきり、飲んでいるものだと思っていて・・・」と言った。

患者さんというものは、案外薬を飲んでいないものだ。それを私は彼女から学ばせてもらった。病棟ではスタッフがチェックするから飲んでいないということは(たまにしか)ありえないので、全く想定していなかった。
外来という場は難しくて、もっと自由度が高いし、医師と患者の心理の間である種のダイナミクスが起こる。慣れた今ではそれがむしろ楽しいし力に変えることもできるけれども、当時はただ想定外のことが起きるのが不安で仕方なかった。

彼女になぜ薬を飲むのをやめてしまったのか聞いたら、舌がもつれる気がする、何となく頭も働かない、ということだった。ハロペリドールの副作用である。
ハロペリドールは安全で良い薬だけれども、患者さんによっては副作用が出る。副作用が少ないとされる非定型抗精神病薬は、今でこそたくさんあるが、私が研修医だった10年ほど前は、デビューしたばかりのリスぺリドン1種類しかなかった。日本では誰も経験がなかったし、どのような薬か知るには、使ってみるしか方法がなかった。
ハロペリドールのまま量を下げてもう一度飲むように言うか、未知の新薬リスぺリドンにするかの選択を迫られた。私はリスぺリドンを使ってみることにした。「副作用が少ない新しいお薬が出たから、こちらのほうがいいかもしれません」と彼女とご主人に伝えて、おそるおそる少量を処方した。
次に彼女が来るまでの一週間は不安でたまらなかった。もし何か未知の副作用が出たらどうしよう、彼女は医療不信になってもう病院に来なくなるのではないか、と恐ろしい思いでいっぱいだった。他者の体に何かの介入をする、というのは基本的にものすごくこわいことだ。それが医師の仕事なのであるが。

次の受診で、彼女の名前を呼んだ時、また諸々の不安が胸をよぎった。彼女はまたご主人と診察室に入ってきた。
彼女は私に向かってにこやかに笑いかけた。その表情は、見違えるような穏やかさに満ちていて、ちょっとびっくりするほどだった。「なんだか落ち着いてきました。夜も眠れるようになったし。」と彼女は語った。妄想については、「少し心配だが、前よりは気にならない」と言った。ご主人も彼女と同じ笑顔で「今のお薬のほうがいいみたいです」と言った。
その後のフォローでも彼女の笑顔はもっと増えていった。穏やかな日々がまた戻り、受診間隔も2週間、1カ月と伸びていった。「今のお薬なら飲めます。先生のおかげです」と彼女は語った。

鬼のような形相で私を罵倒した彼女が、平和な生活を愛する主婦に戻った。素の彼女はかわいらしい人だった。私に対していつも「忙しくて大変ですね。先生も体に気をつけて」と気づかってくれた。私は病気になった時点の彼女しか知らないけれども、もともと彼女はそういうpeacefulな人だったのだろう。あのとき彼女が怠薬を告白しなかったら、薬を変えなかったと思うし、彼女の平和な一面は長く出てこなかったかもしれない。医師は元気なときの患者さんを通常知らないから、「まあこんなもんだろう」と思ってしまいがちである。

薬。それは何てすごい力。そして何て恐ろしい力。選択しだいで、良くも悪くも人格まで変えてしまうように見える。医師なら必ず経験している平凡な一経験だけれども、若くて未熟な小心者の研修医には、強い印象を残した。

(つづく)

Burma, A Forgotten Country : 「ビルマVJ 消された革命」 (2)

(前エントリよりつづき)

短い旅の間でバガンに行った。バガンは40km四方に3000ものパゴダが点在している世界三大仏教遺跡群のひとつ。
シュエサンドー・パゴダの上から夕暮れを観た。ひたすら静かな夕暮れ。


馬車でパゴダ群を回った。ひたすらのんびり荷台にゆられる。御者のウェンゾーさんは英語が上手で穏やかな人だった。

パゴダの名前は忘れたが、夜にあるパゴダを訪れた。濃い闇の中で金色に浮かび上がるパゴダは、夢の中のような光景だった。
14歳くらいの少女が話しかけてきた。流暢な英語だった。どこから来たのか、何歳か、なぜミャンマーに来たのか、これからどこへ行くのか・・・私たちは互いについてひとしきり話した。
「私は外国へ行けると思う?」と彼女は聞いてきた。それだけ英語が上手けりゃ、いつか行けるでしょ、と私は何気なく答えた。彼女は私をちらりと見て、それ以上何も言わなかった。この時は、まだこの人たちが置かれた政治的状況について考えることもしなかった。

ヤンゴンに戻ってきた。ヤンゴンではどの車もめちゃくちゃ古い。20年物とかはまだ新しい部類に入る。30年前のバスとかが人をドアからはみ出すくらいまで乗せて走っている。バゴーまで行くタクシーの中で聞いたのは、15年落ちくらいのダットサンは700万円くらいするのだと。「日本だったらお金を払って廃車だよ」と言ったら、政府が関税をかけているのだそうだ。それでも車があれば安定した商売ができるので、皆でお金を貯めてなんとか買うのだという。
道路ではいくつか検問があった。銃を持った兵士がドライバーのチェックをしていた。町と町の間の荒れた土地では工事をしていて、ドライバーは「あそこで働かされているのは、囚人だろう」と言った。


シュエダゴン・パゴダを夜に訪れた。ヤンゴンで最も大きな、美しいパゴダだった。闇に浮かぶ有名な観光地なので、英語を話すガイドがいて、3ドルくらいでガイドしてくれた。彼も静かで英語の上手な人だった。彼が「ミャンマーの人たちはフレンドリーでしょう」といったので、激しく同意した。
ミャンマーで私は一度も危ない目には遭わなかった。たまたま運がよかったのかもしれないが。バガンではレストランはどこかと聞いたら意味が通じず、4人くらいのおじさんが集まってきて「はて・・・」と考えてくれた(結局ビルマ語で「タミン(ごはん)」と言ったら通じて、おお~と喜ばれた)。ヤンゴンでも市場付近に少し怪しげな人がいただけで、移動も食べるものも困らなかった。治安もよかった。みな親切だった。

そう、確かに悪い人はいなかった。町の中には。悪い人は、みえないところにいたのだろう。

ビルマVJには、全くの丸腰の無抵抗の僧侶や市民が、兵士に殴られたり銃で撃たれる光景が収められている。驚くほど武装も抵抗もなく、ただ撃たれるだけで、兵士の暴力よりもむしろ市民の丸腰ぶりのほうにかなりの衝撃を受けた。軍政が市民が抵抗できないよう教育レベルも低くしているとも聞くが、それ以上にもともとpeacefulな人たちなのではないかと思う。

あの宗教的な穏やかさに満ちた美しいシュエダゴン・パゴダでも、暴力的鎮圧が起こった。僧侶も一般の人も殴られてトラックに放り込まれ、命を落とした。パゴダで座って、祈りを捧げていた僧侶も含めてである。ヤンゴン周辺の僧侶は3万人ほどいたが、数千人の行方がわかっていない、という説もある。多くの寺院が僧侶の不足により、閉鎖になっているという。未だ捕らえられていたり、還俗させられたりしているようであるが、その正確な数などはわかっていない。

政治的体制は、見る者の立ち位置によっても何が正しいか、というのは異なるだろう。私には何が正しくて間違っているのかはわからないし言うこともできない。
治安のよさは軍政が守ってきたものかもしれない。また、まがりなりにもそれなりの経済活動はできる。アフリカや一部の中東のようにテロが続き、無政府状態になっている国よりははるかにましだろう、という考えもある。
しかし、ささやかな精神的・物質的自由を望んだだけで、殺されたり投獄される国はまだあるのである。市井の人々が望んでいるのはイデオロギーではなく、ただ単に適正な価格で物を買ったり、家族が一緒に健康に暮らせることだけだと思うのだが。

この映画の原案、脚本を担当したヤン・クログスガードは日本の各紙のインタビューでこう語っていた。
「アジアに民主主義的な『価値』を輸出できる日本だからこそ、善悪を考え、どんな行動をとるべきか判断してほしい」
「日本人は人間を大事にすることを示してほしい」

個人がひとりでできることはそう多くはない。でもできることはゼロではない。1988年の時、インターネットはまだなかった。今はネットがある。今回、私は自分とビルマを結んだ縁とこの映画について書いてみることにした。アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にもノミネートされたが、オスカーはこの映画より「ザ・コーヴ」を選んだ。おそらく彼らにとってはミャンマーの人々よりイルカのほうが身近なのだろうと思う。このブログが何らかの解決につながるとはとても思えないけれども、記してみることには意味があるし何らかのもっと大きな力につながればと思う。政治的な善悪はともあれ、穏やかでフレンドリーだったビルマの人たちの幸福を願う。この9月から、第三国定住で日本はビルマの難民を90人受け入れるという(8/27 asahi.comの記事)。日本に来るということは彼らの真なる願いではないと思うが、それでも何かよい体験をされることを願う。

参考図書。

ビルマ仏教徒 民主化蜂起の背景と弾圧の記録―軍事政権下の非暴力抵抗― (世界人権問題叢書71)

守屋 友江 / 明石書店

看護師のお仕事探しは

ベネッセ看護師お仕事サポートで!幅広いニーズに丁寧にお応えします

www.benesse-mcm.jp

ランニングにもいい音を。

防水仕様、ヘッドホン一体型、耳にかけるだけ!最新ソニーウォークマン

www.sony.jp/walkman/

インタレストマッチ – 広告の掲載について

Burma, A Forgotten Country : 「ビルマVJ 消された革命」(1)


「ビルマVJ 消された革命」
を観た。
2007年8月、ミャンマー(ビルマ)で起きた、僧侶主導の反政府デモと、それに対する軍事政権の弾圧を記録したドキュメンタリーフィルム。

ミャンマー国内で、軍事独裁国家の苛烈な報道統制を掻い潜り、秘密裏にミャンマー国内の状況を記録し世界へ配信し続けるビデオジャーナリストたちの活動を、一部再現映像も交えてドキュメンタリー風に再構成している。主人公”ジョシュア”はノルウェーのオスロに本部を置く民主化支援メディア、<ビルマ民主の声>の配信を、仲間たちと命を賭して行っている。ビルマでは1988年に大規模な民主化運動が起きているが、この時も軍に弾圧された。今回19年ぶりに起こった、2007年の民主化を求めるデモとその弾圧についてのドキュメンタリーである。

2007年8月、政府が燃料価格を突然500%も引き上げた事をきっかけに、数千人にわたる僧侶たちが主導して各地でデモを開始した。僧侶たちは普段は寺院で自己研鑽のために厳しい修行をしている出家者たちであり、原則政治に介入はしないが、「民衆が苦しんでいるのであれば立ちあがる」とのことである。
映画にも描かれているが、デモにおいて、僧侶たちは政治的スローガンではなく、ただ政府に「和解を」と呼びかけ、托鉢用の鉢を伏せて抗議の意をあらわす「伏鉢」を高く掲げ、読経をしながら行進を続けた。数千人だった僧侶たちの数は、群衆も入れて数万人に増加した。
暴力も煽りもなく、行進をし続けただけの僧侶たちと人々に、軍は鎮圧のため銃口を向けた。フィルムには丸腰で歩く人々に、正面から水平射撃を行う兵士たちの姿がおさめられている。

日本人ジャーナリスト、長井健司さんが兵士の放った銃弾に倒れたのは記憶に新しいけれども、あれからもう3年も経つのか、という気もする。長井さんが倒れたまさにその瞬間もこのフィルムに収められている。それを撮っていたのもこの市井に潜伏するジャーナリストたちだった。

私は2005年にミャンマーに行ったことがある。
前年にひとりで行ったキューバで日本人の旅行者に会って、「どこかよかったところありますか?」と聞いたら、彼が「ミャンマーおすすめですよ。田舎すぎて悪い人がいない」と言ったのがきっかけだった。
悪い人がいない、それは行ってみたい。そんな安易な理由だけでミャンマーに行くことを決めた。

バンコクでヤンゴン・エアーに乗り換えて、着いたときもうヤンゴンは夜だった。
入国審査があると思ったら、高校の模擬店みたいな木枠がついた机があるばかりで、気が付いたら入国手続きもろくになく入国していた。迎えの人や観光業者が勝手に入国審査のゾーンを越えて入り込んで、呼び込みをしていた。
一応観光カウンターと思われる場所でタクシーを頼んだら、やたらに愛想のよいおじさんがやってきてウェルカムと叫びながら荷物を持って行った。やばいのかもしれないが引き返すのも難しいので乗り込んだら、会社で両替してくれるといい、レートを言った。確かミャンマーは銀行等のレートが極端に悪く、ほとんど闇両替だったような気がする。レートは悪くなかったので乗ることにした。彼らはヤンゴンの暗い夜をぼろい車を飛ばして市内に入り、ここがオフィスだと言って私を下ろした。建物に入ったら全く停電していて、真っ暗な中でろうそくをつけ、火の下で札を数えた。ろうそくの炎に揺らぐ初めての異国の人たちの顔はやや不気味だったが、両替額はきっちりあっていた。彼らはきちんと私をスーレー・パゴダ近くのホテルまで送ってくれた。


初めてのミャンマーは「巻きスカートと油とお寺の国」だった。
ミャンマーでは男性もロンジーという巻きスカートを履いている。あと市民のほとんどの足元靴ではなくはゴム草履が定番だった。走る時、ロンジーの結び目がほどけやすいので、前で結び目をもって小走りに走る姿がなんだかかわいかった。
食事は基本的においしいいのだが、なぜかどの料理も油が大量に使われていて、いつも油が数mmの層になっていた。それだけ大量の油を食べるのに、ミャンマーの人たちはみなやせていて、チョコレート色の肌のつやに油気を感じるだけである。顔立ちも隣国のタイヤベトナムとはちょっと違ってすっきりしていて、若い子はみなびっくりするほど美しかった。
ミャンマーはほんとうに敬虔な仏教国である。日本のお寺はお堂の中で祈るが、ミャンマーの寺院はパゴダと言って、屋外に仏塔が並んでいて、そこでお祈りをする。
パゴダは日本と違ってきらびやかな金色に塗られ、仏像も電飾で飾られている。仏は光り輝く存在、ということらしい。上座部仏教なので、僧侶たちは自分の悟りを得るために寺院で修行している出家者で、一切の金品は受け取らず托鉢のみで日々の修行を行う。在家の人々には僧侶は愛と尊敬を持って迎えられる存在である。人々はパゴダで朝に夕に座り、祈りを捧げる。それはほんとうに穏やかな、静かで心打たれる風景だった。

(つづく)