1ヶ月ほど前になるが、「悪魔祓い、聖なる儀式」のドキュメンタリー映画を観た。イタリアのシチリア・パレルモのとある教会。カタルド神父はエクソシストの資格を持つ神父であり、火曜日の悪魔祓いの日にはシチリア内外から希望する人が集まる。その様子を一切のナレーションや音楽もなく、淡々と記録した記録映画である。
実はその前に韓国のホラー映画、「哭声(コクソン)」を観て、これも悪魔祓いを巡る話、ひいては「誰を、何を、どうして、どのように信じるのか?」というテーマの話だった。この映画に出てくる韓国の悪魔祓いの儀式は、祈祷師が色とりどりの衣装を着て、屋外で火の周りで動物の死骸を吊し太鼓を打ち鳴らし叫び回る大変派手なものだった。対決する國村隼演じる祈祷シーンは、密室のろうそくの火の中で白装束で唸る、というものでそれも日本ではありがちな描写ながら國村の形相が抜群に恐ろしかったのだが、日韓の悪魔祓い儀式の姿勢の違いというか、こもった怨念の日本、アッパーなフェス系韓国という対比がおもしろかった。映画好きな韓国の友人に聞いたところ、韓国ではかなりこの映画は社会現象になったらしい。そして韓国でも悪魔祓いの需要は高くて、自分の友人は大学で悪魔祓いを教えているから紹介してあげようか?コクソンに出てきたやつだよ、と言われ、あれは本当にやっている儀式なのかととても驚いた。大変に興味を引かれたものの、火中にわざわざ飛び込むのは自分が憑かれそうな気がしたので遠慮した。
そんなこともあり悪魔祓いに関心を持ったのもあり、また去年パレルモに訪れてとても美しく親しみのある街で、それでこの映画も観ようと思っていたのだった。
驚くのは、カタルド神父の忙しさである。とにかく、希望者がひきもきらない。パレルモ以外から来た遠方の人が優先で、「また受けられなかった」と嘆く人。不登校の子どもをつれてきて「明日は学校へ行くよ、というのに翌日になると汚い言葉で反抗するんです。悪魔の仕業だわ」と嘆く家族。本来悪魔祓いは個人で行うところを、とても回らないので集団ミサも行っているのだが、次々叫び、うなり、倒れる人々。それでも回らず、バチカンには認められていない携帯電話での悪魔祓いも駆使。「この仕事はとても大変なのだが、みんなそれを理解していない。自分はもう老い先長くないからあきらめているが・・・」とこぼす神父。数種類の薬を飲みながらがんばる。
なんというか、胸が痛くなるような忙しさなのだが、中でも印象的なシーンがあった。薬物依存の若者が出てきて、悪魔祓いを希望するが市内に住む彼はなかなか順番が回ってこない。「暴れていたときは会ってもらえたのに、落ち着いてきたらなかなか会ってくれない」と嘆く。家族からも疎外されている彼は、「神も教会も信じているというわけじゃないけど、ここに来るしかない」と言い、通い続ける。
結局のところ多くの悩みの相談場所であり、行く宛てのない人、孤立している人、迷っている人が集まっている、ということがわかる。心療内科に通ったが治らなかった、という人も出てくる。教会は無料で利用できる。カタルド神父は優先順位はつけるが、どの人も断らず、神と信仰のもとに受け入れる。皆が神父に会いたがる。慕われているのである。悪魔祓いは時にはかなり厳しく、大量の聖水をバケツでかけられたり、「悪魔よ出ていけ!」と怒鳴られたりするが、それでも人々はひきもきらない。
しかも、悪魔祓いの需要は高まっており、エクソシズムを執り行うことができる神父は世界中で不足しているとのことで、2004年からバチカン直轄のローマ、レジーナ・アポストロルム大学でエクソシストの養成コースが開かれている。世界中から神父が集まり、情報交換しているが、ランチタイムのシーンで「自分はブルックリンから来たんだけど、この前悪魔が憑いた人に暴力を受けて、でも司教は遠いところにいてこの教区は自分しかいないしこういう場合ってどうします?」「あるある〜!困るよね。司教が悪魔祓いに関心ある人とも限らないし」と英語で盛り上がっていたのが印象的であった。
この映画のレビューをしていた人が、イタリアには精神病院がないのも悪魔祓い人気のひとつの要因でもあるのでは、と書いていて、無理やり関連づけるのは間違いだが、あながちまったくの的外れでもないように思う。去年会ったミラノの女性家庭医は、「精神疾患を患った人が、治療が不十分なまま退院となるので、こちらでケアをしているがとても大変。大きな問題なの」と語っていた。イタリアの精神医療改革は素晴らしいが、一方で入院治療においては、医学的な評価と治療の他に、発症するほどのストレスがあった場所からの避難と休息という意味合いも大きい(日本の精神病院は安心して休息できる環境でない所が多いのが残念だが)。臨床的な感触から言うと入院治療には1ヶ月くらいの時間はあったほうがよいような気がする。たとえば家庭の人間関係がストレスになっている場合、あまり早い段階で家庭に戻らなければならないのも考えものであるように思う。しかし、入院以外に一時的に避難できる静かで安全で助けがある場所がコミュニティの中にあれば、その方がよいとは思うし、オープンダイアローグを行なっているフィンランドの西ラップランドのように、家まで専門家が来てくれて必要なら泊まっていく、という選択肢もありえるならなおいいかもしれない。
カタルド神父は「家族の信仰が薄れているからだ」と何回か来た人に語っているが、いずれにしても家庭の人間関係に困難があったり、それにより誰かが病んだりした場合、家族で話し合うより悪魔のせいにしたくなるほど行き詰まってしまっている場合があるということが示される。医学な問題がある場合もあるだろうが、心療内科は役に立たなかったと言っている人もいた。さまざまな形で、助けを求められる場所は多いほうがよいのだろう。
うまくまとまらなかったが、自然科学の支配的な現代の世界で、一方で実は悪魔祓いのニーズが高まっている、ということが興味深かった。科学礼賛も時々信仰のように感じることがある。飛行機やインターネットなど圧倒的な技術に対しての信頼は理解できるが、わずかな統計処理の差が「科学的」と呼ばれる場面を見ると、人間は絶対的な何かに縋りたいものなのかな、と思ったりする。神が独裁者に変わったり、科学に変わったり、また神に戻ったりするだけで、現代においても基本的に人の根底には未知なるものへの不安がずっとあるのだろう。
最後はありきたりなまとめになってしまった。ほんとうは私が言いたいことは、自分に関する問題は権威よりも、もっと自分の感覚に信頼をおいたほうがいいのではないか、ということなのだが、それはまた別のエントリ、別の機会に。
レジーナ・アポストロルム大学のエクソシズムコースはこちら。来年4月にもあります。神父さん向けですが。
レビューはこれがすごく面白いです。一読を。監督インタビューもどうぞ。