励ましあってるつもりで、消耗していた。喜びを分かち合っているつもりで、奪われていた。生きているとそういうことはよくある。なんとはなしの違和感、夜更 けに叫び出したくなるような怒り、そういうものに蓋をして生きている。感情というのは何かを示しているので、自分の中から聞こえてくるかすかなその声には 耳を傾けなければいけない。でないといつの間にか自分の中の泉は、涸れて干上がっている。
あなたの力を吸い取る相手は、決して悪魔らしい顔をしているとは限らない。また、悪意があるとも限らない。また、人であるとも限らず、場であることもある。
そういう関係性の仕組みがあるだけで、その中にひとたび入ってしまえば、尽くす側はひたすら尽くしたり貢いだり、奪う側は微笑み感謝しながら涸れるまで吸い尽くす。そしてこれは逆転することもあり、あるとき尽くす側が奪う側に回る。
違うと思ったら、拒否すること、離れること。ただ、よりねじれた関係では、拒絶や主張すら相手は吸い取って肥大していくので、感情も思考も投げずに、無視し 続けるほうがよいような気がする。相手を責めても、自分と相手の間にあるねじれがそのエネルギーを吸い取り、さらにねじれの力が大きくなっていく。そして あるときぱちんと弾ける。まあそれはそれで、弾けたほうがよいのだけど。
関係性は相手だけの問題でも自分だけの問題でもなく、関係性自体、生命のある生き物、もしくは魔物なのだと思う。性質を知れば力になるし、知らずにねじ伏せようとすれば牙を剥く。感情も同じだ。
自分の「いま」を教えてくれる感情、それに感謝する。それは自分の中にも、ねじれに巻き込まれる要素があることを警告してくれるし、いつでもあるべきほう、ありたいほうに導いてくれる。
他人の中に見えるものは、自分の中にもあるもの。外界から敵が来るように見えても実は、自分がいつだって、ラスボスなんだと思う。しかしそれとは戦わずして、猛るうねりを見つめ、そのままに受けとめ、尊重し、折り合うもの。自分に最後まで味方して、力になってくれるのは、結局は自分なのだから。