ハン・ガン「ギリシャ語の時間」(晶文社、斎藤真理子訳)を読んだ。
ソウルを舞台に、遺伝性の病気で視力を失いつつある男と、離婚で子どもを失い声を失った女の運命が交錯する。カルチャーセンターで古典ギリシャ語を教える男は、思春期からドイツで沢山の痛みとともに生育し、数年前にひとり母国に帰国した。韓国語とドイツ語の間で割れてしまった彼の人生。職業として選んだのは、もはや人の間では話されることのない死語、古典ギリシャ語を教えることだった。女は職業と子どもと声を失い、”自分の意志で言語を取り戻したい”と願い、しかし話すことのないまま古典ギリシャ語の教室に無言で通い続ける。
ふたりはそれぞれの痛みを抱えているが、ひとりは外の光を受け取ることができなくなりつつあり、ひとりは自らの音を出すことができなくなっている。それは互いに理解することのない痛みである。しかし、発されないままの痛みはどこかで解放されることを求めていたのかもしれず、互いのことを知らず想像することもないまま、ふたりの運命は突然交錯する。
物語の中で、布石となるのが古典ギリシャ語の活用だったり、単語だったり、詩であったりするのだが、中でも中動態が出てくるくだりがある。
私たちが中動態と呼んでいるこの態は、主語に再帰的に影響を及ぼす行為を表します・・・「愛する」という動詞に中動態を当てはめると、何かを愛して、それが自分に影響を与えたという意味になります。
このくだりを読んで、國分功一郎「中動態の世界」を思い出した。
能動と受動。「する」と「される」。行為の主体の責任を分ける言葉。しかしそれは本当にその主体の意志の発動の状態を表しているのか。古典ギリシャ語の中動態の研究を通して考察していく。
國分はスピノザの定義する自由を引用して、この壮大な意志と責任についての考察を締めくくる。私たちの行為は、能動的に「する」と受動的に「させられる」のどちらかに分けられるとは言えず、また純粋な自由意志も存在するとは言いがたく、外部からの要請と内的な必然性によって行為している。しかし、外部の影響があるにもかかわらず、内的、本質的な必然性が行為できている状態が自由である、と。
ハン・ガンの小説に出てくる主人公たちは、「菜食主義者」もそうだが、運命からの絶え間ない圧迫や予想もしなかった困難にもかかわらず、どうしようもなく内的必然性から行為「せざるを得ない」人たちだ。それらが周囲の当惑と軋轢の波紋を次々と広げ、それにより新たに受傷しながらも、そう生きることをやめることができない。
それらは自由と呼べるのか。それには様々な観点があるだろう。しかし、彼らはとても正直な人たちであり、そしてとても孤独である。その孤独の痛みと喜び、誠実さを、ハン・ガンは、丹念に、丁寧に、描きだしていく。
雪が空から降りてくる沈黙なら、雨は空から落ちてくる終わりのない長い文章なのかもしれない。
単語たちが敷石に、コンクリートの建物の屋上に、黒い水たまりに落ちる。はね上がる。
ハン・ガンの描写はほんとうにこまやかで美しく、いつも詩のようだ。
先日韓国で講義をする機会があったのだが、その中で炭素についての話をした。炭素の「炭」は、もちろん炭から来ている。炭は熱で炙られて真っ黒に燃え尽きたように見えるが、実は燃え尽きてはいない。火をつければ再び燃えるが、それ自体は炎を発することはない。木の生命が熱で変容し、闇のような黒さの中に、熱と光を発する力を閉じ込めている物質である、ということを話した。
この主人公たちは、運命の苛烈な炎で焼かれ燃え尽きたように見えて、そうではない。彼らの中の熱と光は、闇の暗さと孤独の奥底に閉じ込められている。しかし、ふたりの運命は接触して、再び小さな火花を発し、そこから彼らの熱や光が再び引き出されようとしている。そこで物語は終わる。
ハン・ガンは「この本は生きていくということに対する、私の最も明るい答え。これからさらに明るい答えを書いていきたい、と語った。ー訳者あとがきより
ハン・ガンがこの物語を、開かれた、でも希望のあるラストにしてくれたことが嬉しい。
ソウルの乾いた空気と骨身に凍みるような寒さ、漢江の鈍色の光、そびえたつ摩天楼とその真下に息づく小さくて親しみやすい、でもちょっと薄汚れた食堂の対比などを思い出す。人々のつるりとした肌の輝きや、やわらかな韓国語の音などとともに。ひりひりとした、でも炭火のような暖かさに満ちた、ソウルの孤独を、思い浮かべる。
↑ 斎藤真理子氏の訳が大変素晴らしいです。他の訳本も読みたくなりました。個人的には人生で読んだ小説の中で5本の指に入るほど感銘を受けた。
↑ 元は「精神看護」の連載。攻めるなあ「精神看護」。古典ギリシャ語の文法からハンナ・アレントを経てスピノザへ至る論考は圧巻。