Memento mori (3)-2 わたしが患者だったころ〜おとな編

(前回よりつづき)

大学入学時には志望分野を「内科か小児科」と書いたのに、卒業して入ったのはなぜか精神科だった。
 卒後4年目までは大きな挫折はなく過ごし、指導医もスタッフにも恵まれて、傲慢なくらいだったと思う。卒後4年目で行ったのは、アルコール依存症を専門にする病院だった。

 そこでもとてもいい勉強をさせてもらったのだが、いかんせん駆け出しの若い女性医師にはちょっときつい仕事だったと今でも思う。自分ではそれほどストレスがたまっているつもりはなかったのだが、ぴたりとおさまっていた喘息が27歳のときに再発した。

  1回目の入院は、夏休みをとったあとの出勤時だった。風邪気味だとは思っていたが、仕事中にどんどん呼吸が苦しくなっていった。それでもまだ大丈夫と思っ ていたのだが、喘鳴がひどくなり、吸入させてもらおうと内科の先生のところに行ったところ、「先生、これは入院かもですよ」と言われ、急いで一通りの仕事 をすませたあと、内科病棟に入院になった。
 一応「特別室」なるものに入れてくれた。海は見えたが、いかんせん古い病棟なので、単に個室であるという以外には何も他の病室と変わりなかった。いつもは指示を出している看護師さんたちが私のケアをしてくれた。
  テオフィリンとステロイドの点滴をしても、呼吸状態はあまりよくならなくて、初めて酸素の鼻管をつけた。流量1リットル。かさかさに鼻が乾いた。1リット ルなんて少ないと思っていたが、結構風が来るのだなあと思った。しかし、呼吸に関しては、これまででもっとも楽になった。酸素って美味しい、と思った。
  2日目の午後から酸素がとれて、3日めくらいにはかなり楽になった。呼吸が楽になるとテオフィリンの気持ち悪さがすごくうっとうしい。ナースステーション に点滴を引いていって、内科の先生に「テオフィリンを抜いてステロイドだけにしてください」とお願いした。内科の先生は苦笑しながら、そのとおりにしてく れた。テオフィリンを抜くと、何ともいえない悪心はなくなった。5日目の日曜日に退院した。

 ストレスフルな日々のせいか、他の要因かわからないが、翌年の冬、私は大人になって2度目の入院をした。
 寒い夜だった。咳が止まらない、と思ったが風邪のせいだと思っていた。夜の11時頃から喘鳴が続くようになって、背中を丸めて座っていても苦しくなった。市の救急窓口に電話して、夜間救急の病院を聞いた。近い方の国道沿いの総合病院に電話して、タクシーで向かった。
 受けつけてから診察まで1時間半ほど待たされた。夜の待合室は寒かった。体を縮めて咳をしている私の横を、救急隊員につきそわれたストレッチャーが通り過ぎ、救急室に吸い込まれた。当直の先生も忙しいんだ。自分も経験したことなので、おとなしく耐えた。

  やっと診察になった。診察してくれた女医さんは自分より少し上に見えた。発作の経過を話すと、「風邪薬は飲みましたか」と聞かれた。メプチンを飲みまし た、と話すと怒ったように「メプチンは風邪薬じゃありませんよ」と言った。アスピリン喘息かどうか聞きたかったのだろうな、と思ったが、その言葉は飲み込 んだ。病気で受診すれば、普段医者であっても一人の患者でしかなく、先生の機嫌や救急室の空気を読みながら、小さくなっている。吸入についで、寒い待合室 で2時間かけて点滴したが、発作がおさまらなかったので入院になった。

 今回は酸素をつけることもなく、翌日発作はおさまった。で もどうにも具合が悪い感じは残り、食べることもままならなかった。点滴が抜けたので、子どもの頃を思い出して、売店にトマトジュースを買いにいった。子ど もの頃愛したデルモンテはなくて、カゴメしかなかったが、2本買った。
 病室で缶を開けて飲んだ。しょっぱくてひんやりした、生きた味がまた口に 広がった。飲み込むと、からだ全体に塩分が広がる感じがして、元気が出てきたので、もう1本飲んだ。やっぱり発作のあとはトマトジュースだな、と思う。体 力に関しては、私にとっては、どんな薬よりも、回復させてくれる。食べられず脱水になっているのが、血管内の塩分と水が増えるせいなのかもしれないな、と 拙く生理学を考察した。
 その夜から食べられるようになった。大人になった私のからだは喘息を再発させて私を落胆させたが、トマトジュースは大人になった私をも助けてくれた。

  入院した日は眠れなかったが、これで眠れそうだと思った夜、隣の女性が夜中に「痛い、苦しいー」とうめき始めて浅い眠りから覚めた。私の前の年配の女性が 目を覚まして、「奥さん、大丈夫?」と声をかける。ナースコールを押すと、しばらくして「どうしましたか」と看護師さんの声が聞こえた。「お腹がいたいん です」と女性が言う。若い看護師さんが来るまでの時間が長く感じた。何らかの処置をしているようだったが、しばらく女性はうーうーとうめいていた。看護師 さんも何だか困っているようで、部屋中の人が起きてしまい、声は出さないまでも耳をそばだてていた。3−40分してようやくその人は「おさまってきまし た」と言い、静かになった。
 看護師さんたちはいつもこんな夜の中で働いているのだろう。夜はたぶん、ひとを不安にさせる。病院の夜は大変なんだなあ、私はそういう看護師さんたちの必死の相談を聞き流していたかもしれないなあ、と思いながら、また眠りに落ちた。

 今回は3日ほどで退院できたが、体調はなかなか回復しなかった。子どもの頃にはなかった吸入ステロイドと吸入β刺激薬は確かに発作は抑えてくれて、呼吸は楽にはなったが、とにかくいつも体が重く、疲れていた。
  這うようにして病院に出勤したら、新しいカルテが7つほど積まれていて「あなたの担当の新入院患者です」と言われた。なんとか仕事をこなしたが、体力はい つもいっぱいいっぱいで、色々イベントのあるアルコール依存症の担当から降りたい旨を上司に伝えると、「あんたは患者を放り投げるんだな」と言われた。基 本的に調子の悪さは、他人には伝わらないものなのだな、と思った。
  吸入ステロイドもシングレアも私の疲労をとってはくれなかったけれど、漢方薬は私の体調を助けてくれた。学生の頃東洋医学研究会だったので、自分で色々試 して、他の先生から処方してもらった。柴胡桂枝乾姜湯と当帰四逆加呉茱萸生姜湯がその頃の定番だった。お湯で飲むと体のこわばりが次第にとれてくる。「か らだが元気になる」というのはこういう感覚なのだなと思った。

 本当に苦しい時期は、β刺激薬や酸素やステロイドや吸入や点滴は、本当にすぐ効いてくれる。あの真綿で首を絞められるような嫌な苦しさは、ぐっと楽になる。
  でも問題はその後で、発作は収まっても何ともいえない不調感が続くときに、それらは自分の場合はあまり役に立たなかった。発作は出なくても、なかなか元気 にはならない。重い身体を引きずりながら出勤する。医師になってからは、医師の言うことは予想できたので、「どうしたら元気になれますか?」とドクターに 聞く気にはなれなかった。
 これは自分で探すしかない、と思った。
  以来、普通の医療から東洋医学、代替医療の範囲まで、患者として受けたり、医療者として実践してみたりして今に至るが、万能な治療はないということだけは はっきりと分かった。相変わらず自分の体にも心にも、自分が行う診療にも不満がある。「なぜ病気になるのか」という問いの答えには、まだまだたどりつきそ うにない。

  長々と思い出話を書いてきたけれども、自分の医療体験は、色々な面がある。医者としても患者としても思うのは、技術はほんとうに進んだ、ということだ。大 人になってから受けた医療は子どもの頃の受けたそれよりずっと洗練されている。そして医者も昔よりずっと教育されていて、優しくて賢い。
  しかし、病気を治療するということと、健康になるということは、実は少しずれている。ユーザーとしては、大して元気にはならないわりに、医療のありがたが られぶりやえらそうなそぶりは、やや滑稽に思う。でも、そんな不完全な技術をもってしても、苦しいときに診てくれる先生や看護師さんはありがたい、と思っ たり、色々な思いが入り交じる。それらの思いは、互いに矛盾していても、どれも真実で偽りない思いである。
 でもひとたび元気になり、医療者側の役割に戻ると、患者側だったときの複雑かつ微妙な思いは驚くほどきれいに忘れ去られてしまい、医療者側の論理で患者さんを説得することに躍起になる。時々ふと気がついては、自分の豹変ぶりに唖然とする。

  でも子どもの頃から、私の疑問はいつも「なぜ」であり、それは今も捨て去れないでいる。なぜ私はこうで、他の人はああなのか。なぜ病気になるのか。運命と 諦めるべきなのか。どうしたらもっと、元気になれるのか。あるいはなれないのか。病気をもちながら、なぜ生きているのか。
  なぜ、と問い続けるのは、子どもから抜けきれていないということかもしれない。でもそれを今もやめられない。大人は子どもに「なぜか答えなさい」という問題を平気で出すのに、大人になると「なぜ」と問うことは少なくなる。子どもの私は咳込みながら、病室から隅田川の 川面を眺めるしかなかったが、大人になった私は、色々な人たちに助けられて経済的、精神的、身体的な自由を得た。少しの知識と経験も得た。それだけでもだ いぶありがたいことだ。子どもの私と同じ疑問をもっている人も、わずかにでもいるかもしれないので、その人たちの何らかの励ましになれたらいいなと思う。 あまり多くの人に役に立てなかったとしても、ニッチなニーズに反応するほうが自分向きなのだろうし。

 そんなことを思って、子ども時代と大人になってからの自分の病気の体験を書いてみました。おかげさまで今は喘息の状態は発作はほとんど出ず、お医者さんに相談したら相手にしてもらえないようなプチ不調くらいまでに改善しています。
 テーマがなかなかMemento moriになりませんが、病気というのもある意味小さな死かもと考えて。