Memento mori (3)-1 わたしが患者だったころ〜こども編

子どもの頃に喘息になった。夜中に発作を起こしては、隅田川沿いに立つ病院に、母に連れられて救急で受診した。

  よく発作を起こすので、病院で買うように言われたのか、家にも吸入の機械があった。うろ覚えだが、鉄製の旧式のミシンの本体部分みたいな格好のそれは、スイッチを入れると、やたらとブルブルとふるえて蒸気を吐く。母がいつもベネトリンとビソルボンという名前の吸入薬を、先のかけた小さな注射器で、慣れた手 つきで入れる。ベネトリンは0.2の目盛りに合わせる。あまりたくさんいれてはいけない。ビソルボンはそれより多く入れてもいいと、目で覚えた。
 それを吸入すると、心臓がドキドキしてくるけれど、呼吸は楽になる。しばらくドキドキして苦しいけれど、効いているうちに横にならないとまた発作が出て横になれなくなるので、寝る。
 それでもよくならないときは、仕方なくいつもの病院に救急受診する。電話するとかえって色々言われて診てくれないから、と母は連絡なしに、わたしを夜中に病院に連れて行った。
 救急受診のとき受けた処置はあまり覚えていないけれども、やっぱり吸入だったり、時に点滴だったように思う。家でやっているのとあまり変わらない、と子ども心に思った。

 1回発作を起こすとしばらく通院するはめになる。石造りの古い病院の待合室は病気の空気が蔓延している。小児科にはたくさんの子どもが待っている。病院に行くのは嫌だったが、長い時間待ち、先生の診察を受ける。
  診察は胸の音を聴いたりするだけなので、どうということはない。嫌なのは、そのあとの処置室での処置だった。あちこち破れた、狭くて固い皮のベッドに横に なり、看護師や若い先生に押さえつけられて、やたらに太い注射器で血をとられる。そのあとは、狭いひな壇みたいな台に、他の子とぎゅうぎゅうに座らされ て、点滴を受ける。点滴の時間はとても長くて、退屈だ。ガラスのボトルから滴り落ちる水滴が、ぷーと膨らんで、ぽたっと落ちる様子をいらいらしながら眺め る。本を読んでもすぐに飽きてしまうが、管につながれているので別の本をとることもできない。知らない子とずっと並んでいるのも苦痛だった。
  呼吸機能の検査をすることもある。先生は「すってはいてのけんさがあるよ」という。女の技師さんは、検査前は優しく「思いっきり吸ったり吐いたりしてね」 というのに、いざ検査が始まると、割れそうなほど手を叩いて「はい!吸って!!吐いて!!吸って!!吐いて!!」と大声で怒鳴る。心臓が止まりそうなほど びっくりして、目を剥いて必死に吸ったり吐いたりする。終わるとまた「よくがんばったねー」と人格が変わったように優しくなる。あの検査中の変わりようは なんなのだろうか、ちょっとおかしいんじゃないか、大人は信じられない、と思ったりする。

  ベテランの先生は優しくて面白かったけれど、くれる薬はいつも同じだった。粉が飲めないのに、大量の粉薬をくれる。粉を飲むといつも気持ちが悪くなる。そ れよりもっとひどいのは、オレンジに白いつぶつぶが入った錠剤だった。見た目も毒々しいし、それを飲むといつも気分が悪くなるけれど、先生はそれを飲むよ うに言うのだった。調剤を待つ待合室は暗くてひんやりしていて、お年寄りが多くて、小児科よりもさらに比重の重い空気がこもっていた。
  唯一の楽しみは、調剤を待つ間に売店で母が買ってくれるトマトジュースだった。トマトジュースを飲むと、生き返った感じがする。カゴメよりもなぜかデルモ ンテがいいのだった。しょっぱくて、冷たくてどろどろしていて、生きた味がすると思った。あのオレンジのつぶつぶの錠剤よりも、ずっと元気になる感じがす る。

 7歳までは頻繁に入院していた気がするが、実際は1年に1-2回くらいだと思う。記憶にある初めはおそらく5歳か6歳のときで、2人部屋だった。母がほとんどずっとついていたと思う。この2人部屋はとても心の落ち着いた記憶がある。白黒の5x10cmくらいのテレビのついた、ラジオカセットレコーダーを持ってきてくれたので、夜は写りの悪いテレビをときどき観た。チャンネルによって、よく映るものと映らないものがあった。
 夜に一度、ひどくお腹が痛くなった。看護師さんを呼ぶかどうか迷ったけれど、小さなTVをつけたら唯一よく映るチャンネルに、まだ若かった桂文珍が出ていた。その番組を観ていたら、文珍の話が面白くて笑っているうちに治ってしまった。なんだ、笑ったら治るものなのか、と子ども心に思った。

 飛び飛びの入院の記憶を引っぱりだすと、次に4人部屋が出てくる。部屋から隅田川の濁った水と高速道路が見えた。これも6−7歳だと思う。2人部屋のベッドの間にはカーテンが引かれていてほぼ個室だったが、4人部屋は大きい子も入院していて、ひとつの社会だった。
  部屋には女の子ばかりだった。小学校高学年の子や中学生の子たちはちょっとませていて、礼儀正しく、愛想よくしないといじめられてしまう。もともと引っ込 み思案なほうだったので、上の子たちの空気を読むのはちょっと負担だった。その子たちは、自分よりもずっと長く入院している。自分より後に入院して先に退 院していく子もいたが、何ヶ月も入院している子もいた。入れ替わるベッドと入れ替わらないベッドがあった。
  たまに回診がある。若い先生とベテランの先生の2人担当医がいた。ベテランの先生は外来で診てくれる先生だったが、若い先生は入院のたびに入れ替わる。発 作が出なくなったら、私の先生たちはちらっと顔を見せるだけになるが、同室の子たちの若いほうの先生は長々と話をしていく。
 ひとり、長く入院している中学生くらいの女の子がいて、その部屋のボスのような存在だった。髪が長くて大人びていた。
  夕方食事が終わると、その子のところに若いほうの男の先生がやってくる。中途半端に伸びた髪の長さで、黒ぶち眼鏡で、白衣から毛玉のついたセーターが見え ている、地味でまじめそうな先生。そしてベッドにカーテンを引いて、ひそひそひそと何かを話していく。ひそひそ声なので何を話しているかはわからないけ ど、その子のところだけカーテンが引かれているのはちょっと目立った。時々フフフという笑い声が聴こえた。
 ひとしきり話が終わると、カーテンが開けられて、若い先生が出て行く。普段いつも無表情で、笑わない先生の口の端がだらりとほころびている。彼女はにっこり笑って、先生を見送る。いつもよりもっと大人びた顔になっている。
 他の子たちは、彼女とその先生は「できている」のだと言っていた。
  なんだか複雑な気持ちになった。彼女が話すと、笑わない先生が笑う。おとなの医者にあんなに鼻の下をのばさせて、病気じゃなかったら何人もの男の子が寄っ てきて取り合いになるだろう。河合奈保子の「けんかをやめて」みたいだ。でも彼女はなぜか病気で、学校じゃなくて病院にいる。何の病気だか知らないけれ ど、長く入院しなければならないらしい。 彼女はもてそうなのに、なぜそんな病気なんだろうか。看護師さんが叱るような声で消灯しに来る。高速の外灯の冷 たい光だけが、窓から入ってくる。

 退院した後、何週かぶりに小学校に行った。休み時間に、下駄箱の前で、冬でもランニング1枚と半ズボンでいがぐり頭の男子が、友達に「あいつが退院してよかったな」と言っているのを聞いた。言われたほうの友達は素直に「うん」とうなずいていた。
  わたしの聞こえないところで、他の人に言ってくれているのがうれしかった。その子には2人の兄弟がいたが、家の方針なのか、全員冬でもランニングに半ズボ ンにいがぐり頭だった。それでも風邪一つひかない。私も1年中ランニングを着ていれば彼のように丈夫に育ったのだろうか。それとももともと丈夫なのか。あ の子の家に生まれたら、わたしもランニングで半ズボンを着せられたのだろうか。そしたらもっと外で元気に遊べたのだろうか。
 
 喘息の発作が出ると一息ごとに苦しい。気道が狭くなって笛のような音をたてて、吐くに吐けず、吸う息も入ってこない。粘膜から液体があふれてきて空気の通り道を塞ぐ。
 呼吸が苦しいと、ただ存在しているだけで苦しい。なぜわたしはこんな苦しいのだろうか。
ほ かの子は吸入したり、まずい薬を飲んだりしないで、猫も犬も飼えるし、走っても平気だ。薬を飲まなくていい友達がうらやましい。わたしはこんなに動物が好 きなのに、なぜ猫や犬をさわるとぜんそくが出ちゃうんだろう。いつかは飼える日が来るのだろうか。なぜ私だけそうなのか。
 次々に起こるできごとの断片を、子ども心につなげて考える。

 病院のある隅田川のほとりには、家のない人たちが住んでいる。春にお花見に行くと、ブルーシートのテントが並んでいるのをいつも見る。日焼けしてワンカップを手にしたおじさんたちが座っている。大人たちはそこを少し避けて通る。
 いつも病院に行くたびに、車から見る川は淀んだ水が流れていた。隅田川はこれでもきれいになったんだよ、昔はすごい匂いがして汚かったんだから、とハンドルを握る母がいつも言う。
  川のほとりに住むおじさんたちも、昔に比べたら川の水はずいぶんきれいになったな、と思っているのだろうか。それとも違いがわかるほど、そんなに長くは住 んでいないのだろうか。あの人たちが変わった人たちなら、一番元気なはずのコドモの頃に病気をしている自分や長く入院している他の子たちも、相当変わった 人といえるのではないだろうか。「普通」からははずれている、という点ではあまり変わらないのではなかろうか。
 薬など無縁で元気に走りまわる、つやつやした同級生たちのことを考える。自分はどうしてこのように生まれつき、他人はどうしてあのように生まれつくのだろう、というようなことが、言葉にはならないけれどずっと疑問としてあったように思う。

  小2での入院を最後に、私はすっかり元気になってしまった。時々は発作もあったが、入院するほどにはならず、少しずつ「現世」に適応していった。受験して 入った中学高校では、楽しい友達と愉快に過ごした。学校の校風は微妙だったが、友人たちとは戦友のように絆ができたし、勉強もそこそこ何とかなり、病気の 記憶はどんどん薄れていった。

  幼い頃は通訳になるつもりだったが、なぜかいつかの時点でその夢が医者にすりかえられてしまった。子どもの頃の微妙な医療体験にもかかわらず、その中で感 じた微妙さは、成長するにつれ「医者は人のいのちを助ける素晴らしい仕事」というステレオタイプな信念に置き換えられた。病気の体験を記憶の底に沈めた私 は、「医師は素晴らしい仕事」という世間の概念を信じて、ぬるっとぬるま湯な大学時代を経て、晴れて医者になった。

 (つづく)