ロックで読み解く貧困 (2) 子どもの貧困- Suzanne Vega “Luka”

前回は経済的貧困だったけれども、今回は子どもの貧困について書く。支援の貧困と言いかえてもいいかもしれない。

1987年の、スザンヌ・ヴェガの「ルカ」。初めて聴いたときは少し衝撃を受けた。この曲は結構ヒットしたけれども、いわゆる児童虐待がテーマで、当時話題を呼んだ。

僕の名前はルカ
2階に住んでる
あなたの上の階です
前に会ったことあるよ

もし…夜中に何か、ケンカみたいな、もめごとみたいな音が聞こえても
「何があったの?」と聞かないでくださいね
「どうしたの?」と聞かないで
どうか、聞かないで

僕がドジだからいけないんだ
大声でおしゃべりしすぎちゃいけないよね
たぶん、僕がおかしいんだ
えらそうにみえないようにしなくちゃ

あの人たちはあなたが泣くまで殴りつけるだけだよ
そしたらもう、「どうして?」なんて聞かなくなるよ
だからもう、議論しないほうがいいよ
どうか、言い争わないで

うん、僕なら大丈夫
またドアにぶつかっちゃっただけだから
そのことをあなたが聞きたかったんだとしても
あなたにはどうにもならないことでしょ

たぶん。ひとりになりたいんだと思う
何もこわれたり、投げられたりしないところがいいな
「調子はどう」って聞かないで
「どうしてる」って聞かないでください
どうか、聞かないで

この曲は、虐待されているルカという子が、それに気づいた「あなた(という大人)」と会話するという構成になっているが、子ども側の心理をよく歌っていると思う。多くの場合、虐待を受けた子どもは、自分が悪いんだ、とどこかで思っていて、虐待をされるのは自分の欠点のためだ、と思っている。親なり虐待する大人を告発できるほど、抵抗力があることは少ない。

「They only hit until you cry
After that you don’t ask why」

のところの訳が自信がないのだけれども、「(彼らに「何があったんだ」と問いつめたとしたら)あなたが泣くまで、彼らは殴るよ。(殴られたら)もうかかわろうなんて思わなくなるよ」という意味にしてみた(誤訳でしたら教えてください)。
虐待について問いつめたとしたら、僕の親はあなたを殴りつけるだろう、とルカは心配しているのである。「あなた」はたぶん自分で身を守れる大人であるのに、自分と同じ目に遭うことをルカは心配する。ここらへんがすごく子どもの視点を書けていると思う。

ルカのような子を見かけたら、どうしたらいいのか。「どうしたの?」とルカに聞くべきなのか、それとも親に注意すべきなのか。この歌の中の「あなた」はそのようにした。しかし、この歌の結末は、そのどちらもあまり事態を解決しない、ということを暗に示しているように思う。
声をかけてはいけないということではなく、声をかける「だけ」ではいけない、ということだ。

児童虐待の防止等に関する法律というものがあり、第六条に 「児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに(中略)児童相談所に通告しなければならない。」とある。国民全体に、通告する”義務”があるのである。通報した人の名前は漏らさないことになっており、通告がもし間違っていたとしても責任は問われない。
児童相談所も最近は年々増える相談に青息吐息であり、うまく機能しないこともあるのはニュースからもわかる通りだが、それでもまず、気づいた人が声をあげること。子どもを助けることはそこからしか始まらない。

虐待する親の側はどうなのか。
ルカの親(親とは限らないが親としておく)は、「あなた」も殴ると思われているくらいだからかなり粗暴な感じだ。確かに、子どもに対して力づくで支配することが育児である、ということが「文化」になってしまっていて、なかなか変えることができない家族や地域もある。そういうところでは、だいたい親も虐待を受けて育っている。
ただ、そこまでひどいことはむしろまれであり、だいたいは親または養育者の側にも「虐待をしてしまっている。なんとかやめたい」という意識が少なからずある。最近はクリニックにも、「虐待をしてしまいそうで怖い」という理由で受診する母親たちが結構来る。

母親たちは結婚していたり、あるいはシングルマザーのこともある。親の状況も様々だが、親自身が感情的な困難を抱えていたり、泣きやまない、問題行動など難しい子どもであったりして、どうしてよいかわからなくなったあげくに「やってはいけないとわかっているが、つい大声でののしってしまったり、手をあげてしまう」ということになる。もちろん母親だけでなく、父親のこともあるが、特に養育と仕事を一手に担うシングルファーザーの場合は、悩みは母親に近いものがある。

本来、子育ては、家庭と社会の間でなされるものだと思う。人間が社会的な存在である以上、家庭だけに責任を持たせるのは、筋違いだ。核家族化がすすみ、コミュニティのつながりが希薄になり、また少子化でひとりひとりの子どもの価値が高まり、子どもを預かることにかなり責任が生じるようになった現在、親に特に養育の責任が課されるような風潮が生じてきているように思う。しかし、子どもが社会性を学ぶのは、むしろ学校、家庭以外のサードスペースにおいてなのではないか。

「親学」に代表されるように、日本の育児支援は「相談」と「指導」に著しく偏っている。「相談」できる場所はあっても、ちょっと助けてくれる人は少ない。障害のある子2人を育てているあるシングルマザーは、精神的身体的に手一杯でショートステイを頼もうとしたが、自治体内の施設は1ヶ月前の受付を開始するものの、電話は朝からまったくつながらず、つながったときにはもう枠が埋まっているのだと嘆いた。人気アーティストのチケットのような状態である。
「口は出すが、手は出さない」のが日本の育児支援の現状である。助けてくれる手があれば、虐待は予防できるだろうし、幸せに育つ子が増えれば、必ず社会はよくなる。教育と育児の支援は何より、社会への投資であり、社会の発展と、そして治安の維持にも役立つと思う。
日本は所得再分配後の子どもの貧困率が再分配前より高くなる、数少ない国である(参照)。先進国の中で日本より子どもの貧困率が高い国はアメリカ、スペイン、イタリアくらいである。日本は決して人間の価値と安全を重んじるシステムにはなっていない。茫洋とした「公共の利益」という言葉だけがひとり歩きする。社会保障を削るのは、将来を抵当に入れることだ。

私も学童期や思春期の子を少しだけ診ているが、この子たちが将来どのような価値を創造するのだろう、さなぎの混沌を経てどのような蝶になるのだろうと思うと、とてもわくわくする。子どもは見えない力を受けとって、前回来たときより確実に成長している、それは成人の患者さんにはみられない特徴で、医療者にとっても希望の力だ。不運にして困難な身体、困難な環境に産まれてきた子も、ひとしく成長している。ひとが創る価値とは決して経済的に測れるものだけではない。彼らが成長したときに社会とはこんな場所だったのかとがっかりしないよう、私の手の届く範囲はもっと整備をしておきたいと思っている。微力ながら。

2 thoughts on “ロックで読み解く貧困 (2) 子どもの貧困- Suzanne Vega “Luka”

  1. COM

    facebook から拝読したものです。よいものを読ませていただきました。
    歌詞のご懸念の部分について僭越ながらひとことお伝えいたします。
    少しばかり英語をかじった者にすぎませんので、ネイティブの方などのほうが正確に解釈されるとは思いますが。
    ちなみに歌詞カードも拝見はしておりません。

    (彼らに「何があったんだ」と問いつめたとしたら)と補っておられますが、その場合は
    They will hit you 
    のように、will が用いられると思います。
    しかし歌詞には will はなく、現在時制が使われています。
    なので「問い詰めたらたたく」という、条件に対する結果を表す文ではないと思われます。

    ですので、この部分は
    “彼らは相手が泣くまで、ただたたくのだ
    そしてそうされても、(たたかれた方は理由なんかは)尋ねないのだ<尋ねないものなのだ(理由などないから)>”
    という意味かと思われます。
    ( you は、ここで Luka の話している相手の「あなた」を特定して指すのでなく、Luka = I に対する二人称複数の「あなたたち」であると思われます。日本語ではふつう特に訳されません)

    失礼いたしました。

  2. Tsukahara

    ご指摘ありがとうございます!
    そちらの解釈のほうがすっきりしますね。後ほど注をつけておきます。

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