5年ほど前に、神奈川の作業所から、境界性人格障害(Borderline Personality Disorder ; BPD)の人たち向けの講義をしてくださいと頼まれたことがある。普段はその作業所は摂食障害の人たちが通っているが、BPDと摂食障害の人たち、その家族が主な聴衆で、その中でもBPDの人に向けた講義をお願いします、という依頼だった。
その時に私が選んだ講義のテーマはなぜか「自分を愛そう!BPD」というタイトルだった。BPDの「わがまま」にも見える行動は自己愛が強いせいと思われることが多いが、私は自己愛が極端に低いせいだと思っている。健全な自己愛を持っていれば、人の関心を惹き続けたり、「私を愛して!」とケアを求め続けたり、見捨てられたと感じて自傷する必要もない。他人の反応は淡々と受け流して、黙々と自分のしたいことをしていればいいし、それができるはずだ。
BPDの人には自分のありのままをまず認めることに、少なくともトライしてもらいたいと思っている。不安な自分、すぐ善か悪かを決めたがる自分、依存したがる自分、自分を愛せない自分、それも自分自身だ。まず、自分は何にどう感じ、どう考え、どういう行動をとっているのか、それを責めたり否定することなく認識すること、それが回復への第一歩だと思う。
ちょうどその時、私自身、自分の精神的身体的健康問題から当時勤めていた病院をやめた時期だった。度重なる疑問や怒りを封じ込めて働き続けたが、そういう無理は、いつかは歪んだかたちで噴出する。そういうことを何とはなしに自覚しはじめた時期だったので、私自身が自分自身を受け入れたいという気持ちが強かった。それもあって、こういうタイトルの講義にしたのだろうと思う。
講義内容の詳細は忘れたが、やはりありのままの自分をみとめ、受け入れ、愛そうというような、ある意味甘ったるい内容だったと記憶している。これはBPDの人たちには好評で、前に診ていた患者さんの母親は、「娘は講義の初めには足を組んでつまらなそうにしていましたが、途中から私の手からペンを引ったくって資料にメモをとってました」と言ってくれた。終わったあとも笑顔で気持ちが楽になったと私に伝えてくれた人もいた。
しかし、その場にいた多数派の摂食障害の女の子たちには、この講義は大不評だった。どうだった?と聞いてみると、彼女たちは「うーん、よかったんですけど・・・」とためらいがちに口を開き、そのうち徐々に怒りを表出し、「先生、彼女たちはもう十分に自分中心じゃないですか。もっと自分を抑えることを学ぶべきでしょう」「世間はそんなに甘くはないですよ」と怒りだした。
その当時、私はこの反応の違いがよくわからなくて、なぜこのように二分するのだろうといぶかしかったのだけれど、何年かしてからようやく、これがBPDと摂食障害の対極性なのだ、と気がついた。
BPDの人たちは「行動化」と呼ばれるように、基本的には外にエネルギーを放出していく人たちである。怒りや悲しみ、自己嫌悪、見捨てられる不安などを感じると、それを基本的には外に向かって表出する。時には暴れ、ものを投げ、リストカットし、ベランダから飛び降りる。基本的には、「感情をしまっておけない」人たちである。
BPDの人たちはある意味素直で、優しさが大好きだ。勇気づけ、鼓舞するような言葉で励まされ、温かく包まれることを好む。
それに対して、摂食障害の人たちは、内に閉じていく人たちであると思う。自分の中で苦しくても納得がいかなくても、感情と意志を抑え込み、閉じ込める。
拒食の人は、食べないことで、それを達成する。外界への完璧な拒絶を表現する。過食の人は、自分の中に渦巻く疑問や衝動を、食べることでなだめ、封じ込める。つまり、普段自分自身の感情や行動を押さえ込むことに、多くのエネルギーを割いている。だから、自分を愛するという概念が、にわかには持てないのだと思う。不完全な自分という存在は、常に厳しくコントロールするべきものであって、受け入れて愛するなどとは持ってのほか、と考えてしまう。
回復に向けた色々な提案をしても、「そうですね、頭ではわかるんですけど、私には難しい」と言われてしまうことが多い。そして食べ続ける。あるいは食べないでいる。前はこの反応に治療者としてとても苦しんだが、いまは彼女たちのことが前よりは理解できる気がする。
BPDの人たちは、外から取り入れたものを全部放出してしまう傾向がある。
変な言い方だが、「精神の下痢」と言えるかもしれない。色々な体験や感情を消化できず、すぐ“吐き出して”しまう。
治療者が彼女たちの行動化に個人的な怒りの感情を向けたりすると、それもまた消化できずに、彼女たちの行動化を促してしまうと思っている。ので、私はBPDの人たちは静かに静かに見守るようにして、自分自身の個人的な喜怒哀楽を向けないようにしている。それは燃えている火にガソリンを注ぐようなものだからだ。それは治療者側にとっても、とても困難なことだけれども。
逆に、摂食障害の人たちは、「精神の便秘」とも言えるのではないか。出すべきエネルギーを出さず、閉塞するまで固めてしまっている。彼女たちには、「とことんまでやってみる」ことを勧める。彼女たちはもっと怒ってもいい。もっと動いたほうがいいと思う。食べること、食べないことのレベルで自分の衝動を封じ込めるのではなくて、もっと怒り、悲しみ、喜び、もっとなんでもとことんまでやってみたほうがいい。一度にホールケーキ3個とか食べてしまう、あるいは死にかけるほど食べないでいられるような、彼女たちの底知れないエネルギーは、自己の内部に永久にしまっておけるようなものではない。どのような形であれ“外に出していく”ことが必要だ。ケーキで封じ込めてはいけない。だから、摂食障害の人においては、表出された怒りも悲しみも行動もすべて、原則として祝福すべきと考えている。もちろん、それが危険なものである場合は、止める。しかし、自分なりに何かを決断し、“食べること以外において”行動したということ、それは基本的には「よくやれたね」というべきことのような気がする。バイトを3日でやめてしまっても、バイトに応募できた、その勇気が出せたという事実が大事だ。
「よく怒ったね」「よく泣けたね」「よくバイトに応募できたね」と言ってから、「もう少し楽なやりかたがあるかな?」と一緒に考えてみる。でも答えはいつも、彼女たちの中にしかない。そしてそれは、考えることではなく、行動する勇気の中からしか出てこない。
BPD的とは、「考えるべきときに行動してしまう」ことで、摂食障害的とは「行動すべき時に考えてしまう」ことではないかと思った。ここに対極性がみられる。そしてしばしば、両者の間を彼女たちは行き来する。
ひと、少なくとも女性の中には誰でも、「衝動的に拡散する」BPD心性と「萎縮し収縮する」摂食障害心性の二極性があると思う。私自身は、BPDの心性に近いと自分では思っていたが、この数年で、どうも摂食障害のほうに近かったのではないかと思うようになった。常に自己批判し、自分には何も言う資格も知識も能力もないと思い、言うべきことがあっても口をつぐんできた気がする。
今だったら、「自分を愛そう」というタイトルの講演はしないと思う。自分を愛する、それは言うはたやすく、行うは難しいということが、自分自身についても嫌というほどわかったからだ。でも、BPDの人にも摂食障害の人にも、自分自身を否定せずに、まず自分自身について知ってほしいと心から思う。自分という存在は、何をどう感じ、考え、行動する人間なのか、知ること。それは愛することへの第一歩であり、それに立ち会うのが治療者の役割だと思っている。
初めまして。
同僚がBPDと思われ、昨日一緒に心療内科を受診しました。
単なる鬱と診断されたのですが、1ヶ月の休職を勧められました。
しかし、厳禁したのにもかかわらず会社と連絡をとってしまい、
この調子だとサポートできない、と突き放すと「もう死にたい」とメール。
セカンドオピニオンとして勧めた心療内科の初診もキャンセルしてしまう始末。
自分を愛せないから他人に迷惑をかけまいとして、結局はメンタルでダウンして
最悪の結果になるのですね。
その行動性をなぜ自分の為に向けない?と思ってしまいます。