「供養」としての振り返り

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 勤務している病院が、電子カルテ管理になった。3ヶ月は紙カルテも来るのだが、それ以降は全面オンラインに移行になるので、サマリーを書くよう通達があった。春に今の病院も退職する予定なので、それもあって引き継ぎ用のサマリーを書いている。

 それでいやおうなく患者さんとの今までの過程を振り返っている。やりとりの蓄積をもう一度見なければならなくなっているのだが、自分のした診療を見返すのは結構きついものがある。自分の未熟さのために患者さんとのやりとりが不毛な傷つけ合いになってしまったり、停滞した時間が長引いたりしてしまった時もあった。

 自分の苦手なタイプの患者さんというのがはっきりあって、それは混乱して話が止まらない人と、逆に「全然よくなりません」ということだけを言いそれ以上何も語らない人だということがわかった。外来は常に混んでいて、今いる病院では1時間に8−10人の予約が入っている。今は午前中だけなので平均25人前後を診ることになるが、だいたい一人にかけられる時間は、5-10分以内ということになる(でも多くの精神科医がもっと多い数の人を診ている)。前にこの状況を何気なくドイツ人の医者に言ったら、驚きを通り越して絶望的な表情をされ、「それで何ができるんだ?」と言われた。でも保険診療の規定は「初診30分以上、再診5分以上」となっているので、日本の精神科の診療はこの5分という単位を想定して構築されていると思う。
 
 でもなんとか外来はまわる。それは長くしゃべる人も入れば、すぐ帰る人もいるからである。良くなるとあまり気になることがなくなるので、「特にかわりありません」の一言ですむ。精神科の単科病院では、こういう人が多かった。統合失調症などで、20-30年と長く通院している患者さんはそんなに多くのことを語らない。たぶん日本の今までの診療は、再診はほとんどこういう人である、という前提で作られているのだと思う。
 
 でも最近、特に総合病院に来る人の悩みは深く複雑である。そうそう5分でサマライズして語れるものではない。
 話が長い人はだいたいあちこちに飛んでまとまりなくなることが多い。私も外来を回すのに必死で、だいたい20分を越えると、「この話を打ち切るにはどうしたらいいのか」ということで頭がいっぱいで、うわの空になってしまっていた。あなたが語る時間は、2分で帰る人たちがあなたにくれているものなのだ。それを考えたことがあるのだろうか?などと思いながら、ひたすら目をカルテに落としていた。
 それだけ思っていたのに話せなかったこと、消化できなかった体験が、その人の中につまっている。それは、どこかの時点で誰かに聴いてもらい、ほんとうは自分の中から排出したほうがよかったものなのだろう。でも不幸にして聴いてくれる人がいなかったり、生きるのに必死でそういう思いを押さえ込んでいたりしながら生きてきたから、それらの思いが蓄積してあるとき閾値を超え、病気になってしまったのだろうと思う。だから、何らかの形でそれは語られる必要があるし、語られないと次に行けない。今ではそう思えるけれども、当時はそのような余裕はなかった。

 かと思うと「全然よくなりません」と最初に言ったまま黙って座っている人もいる。
 こういう人の二言目は、「薬を変えてください」である。それに応じて次々薬を変えていっても、「あまり変わりません」か「もっと悪くなった」と言われることが多くて、治療者泣かせである。何か提案をしても、「わからないのでおまかせします」と言い、次回はまた「何も変わりません」と言い不服そうに座っている。医療者のあなたが知恵をしぼって治すべきでしょう、私は素人ですから、といわれているようで、なんだか無能さと罪悪感を感じて苦しかった。
 回復というのは、畑に生えるたくさんの雑草のようなノイズから、回復の小さな芽を見分けて、育てるようなものだ。気がつかなければ雑草の中に埋もれていってしまう。こういう人は日々の微妙な感覚の違いを感じ取る力が弱いのだ、ということにある日気がついた。感受性が「快」か「不快」だけで、間の微妙な動きがあまりみられない。白か黒かで判断しがちで、ちょっとでも症状があるとそれは「バツ」に分類されてしまう。しかし、同じ赤点でもたとえば30点と40点の違いをわかるようにならないと、伸びた10点を育てて増やしていくことができない。治療者側がそれを感じとる手助けをする必要がある。今では生活記録表のようなものを書いてもらい、日々あったこと、思ったこと、行動したことと、症状の因果関係を感じてもらうということをするようになり、こういう人にもある程度対応できるようにはなってきた。

 カルテを見返して、患者さんの苦難の過程をもう一度たどり、同時に患者さんへの陰性感情に苦しみ、でもその不毛でさもわかっていて、何とかそこから抜け出ようとあがいた自分の時間が思い出される。
 カルテの字もずいぶん変化していた。4年前は結構丁寧に書いていたのに、最近は痙攣したように小さくなり崩れていた。書くと時間をとられるので、時間を少しでも節約したかったのだろうと思う。
 検討違いの努力だが、それでもそれらが一応生きたのか、それらの患者さんのほとんどがそれでもかなりよくなり、自分の居場所や社会に戻ったり、戻ろうとしている。だからその人たちは私に感謝してくれており、また苦難を越えた自信に満ちている。私もそれを喜んでおり、今のその人たち個人個人の新たな門出をうれしく思っている。
 ただカルテを見返しているうちに、そのときの自分の怒りや憎しみ、でも医者だからそれを出してはいけないと抑圧しようとしたこととか、そう思ってしまう自分を責め、変えなければと苦闘していたことが甦ってきて、胸が苦しくなった。これを書きながらも、胸から頭のあたりに締め付けられるような感じを感じている。抑圧された感情は身体症状になる、と思う。今がよくなっていればいいというものではなく、もう実態がないのに亡霊のようにそこに残り、身体的な苦痛さえともなうそれらの感情は「供養」が必要なのだ、ということを理解した。
 「幽霊や亡霊」というのも、残った念のようなもので、もう終わったことなのだから流れさるべきなのに、その空間にとどまってしまっている感情なのではないだろうか。それらは適切に供養されないと、実態化する。「ストレスの身体化」ということと似ているのではないか。私は幽霊を見たことはないけれど。

 思えば患者さんにも同じことが起きている。患者さんの時間は苦痛の時点で止まっている。トラウマのフラッシュバックは特にそうである。
 「語ること」はやはり供養なんだと思う。そして語ることは、純粋な「聴き手」がいて初めて成り立つ。聴き手が判断なく聴くことができるほど、供養としての語りをしめやかに行うことができる。

 そして「供養としての語り」は「振り返る」ことからしか生まれない。いつも前向きに、過去を振り向かずに突き進むと、ものごとの一面しか見えなくなって、少しずつのズレに気づかず、気づいた時には大きく外れている。苦しくても振り返ることはやはり大きな力になると思う。
 過去を振り返るな、というのは、過去を捨て去れということではなくて、過去について善悪を判断するなという意味だと私は思う。過去は、善し悪しを判断されることなく目を向けてもらうことを待っている。過去を振り返ることで、経験は自分の血肉になっていく。そこで初めて周囲の波の勢いに流されずに、自分の航路を軌道修正していく力が生まれるのだと思う。
 しかし振り返ることは、苦しみが多かった人ほど案外しんどく、ひとりで行うのは意外と難しかったりする。そこに静かに立ち会ってくれる他者がいると、安心して進むことができる。
 過去の苦しさを「成仏」させることがこころの治療者の役割なのだろう。ある意味僧職のようなものかもしれない。ただし、それには否定も肯定もせずただ聴くという、「慈悲」のような姿勢が要る気がする。

 書いていてもやっぱりなんだかダウンしてくる。けれどもこれらの体験はもう終わったことなのであり、患者さんも通る道なので、私自身もまた通って成仏させないと次に行けない気がする。これらを語らせてくれる場があり、聴いてくれる人がいる、というのは幸せなことだと思う。私自身もそのようでありたい。読んでくださったみなさんに感謝します。

3 thoughts on “「供養」としての振り返り

  1. Mori_yell

     精神科医にも同じような感じ方、考え方をする人がいるものだと驚きました。私の場合は病院勤務の内科医としてでしたが、三分も満たない診療時間の中で、この関わり方では未消化物が溜まる一方(ストレスも実体化する一方)だと感じていました。開業した時には「時間はある。さあ全人的に診よう」という気負いで少し苦しみました。供養という作業は決して楽しいものではないので。
     ただ、今は少し違います。供養は、そのままでは遺残する思いをいったん形にして、個人の力を超えた世界に手放す、という性格があります。抱えるのでなく手放す。つまり、治療的自我の確立には、ケアギバーとして生きる「僧職系男子」のような高尚なイメージしかなかったのが、もう少し自由闊達なものを目指すべきだと気づいたのです。
     じっくりと話を聴いているうちに、どんな人も固有の物語を紡いでるのだ、という当たり前の発見が、私を「聴く者」から「物語りを読む者」に変化させました。そうすると余計な力が抜け、供養する意図がなくても、相手の思いが勝手に成仏(昇華)していくという経験が増えていきました。能力や技法の開発ではなく、「モードの転換」という表現がピッタリします。でも、これも私という物語の途中報告に過ぎませんが・・・。

  2. Mahiru 投稿作成者

    丁寧なコメントありがとうございます。私もその「聴く」→「物語を読む」という感覚への転換は感じていたところです。これはこの人の編んだ物語なんだなーと思うと、なんというか、色々な流れの中でその人が考えたこと、行った努力、選んだ選択のひとつひとつが、愛おしい感じがしてきました。ある意味、個人的な物語を読ませてもらっているということがありがたくも思えます。
    でも、治療者として関わることで、物語の中に自分も組み込まれていくので、ここに反映と相互作用が生まれていって、「主客未分」な境地もちょっと感じたりします。ということは治療者として何か気負う必要も実はあまりないし、相互作用の中から生まれてくるものをただ祝福していればいいのかな、なんて。

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