薬 x 言葉 = EBM + 陰陽道 (1)

研修医だった頃、指導医について薬物療法を学んだ。似たプロフィールの薬が大量にあるので、最初は本当にわけがわからなくて、まるで大量の外国語の単語のようだった。たまたま私の指導医たちは、経験豊富でしっかり薬物療法の体系ができている先生たちだったのと、チェックはしつつも「やってみたら?」と言ってくれる人たちであったので、割と早い段階からおそるおそる自分で処方を考えた。抗不安薬一つ出すのに、胃が痛くなるほどどれがいいか考えて、出したあともこれでベストだったのかどうか、本当に悩んでまた胃が痛くなった。

処方は実際使ってみるのが一番勉強になる。一番参考になるのは患者さんの表情で、合っているときは必ずやわらぐ。顔色も状態が悪い時はグレーに淀むけど、バラ色の輝きが出て、澄んでくる。声をかけたときの患者さんの一瞬の反応とか、体の無意識の動きから緊張が抜けてきて、話す内容や声のトーンが穏やかなものになるなどの変化がみられる。こういう判断は、別に医師だけが判断できる特殊能力ではなく、誰でも観ればわかる、ごく当たり前の能力である。検査値を読むのはトレーニングがいるけれど、精神的な回復はだれでも観て明らかなものである。

私が研修医の頃、ある中年の女性が、激しい興奮と被害妄想で入院してきた。私を罵り、暴れてひどい状態だったのだけれども、ハロペリドールという薬を処方してわりとすぐに被害妄想と興奮は治まり、穏やかになった。彼女はたぶん若い頃から病気自体はあったと思われたのだが、そう大きな問題にならなかったので、今回人生で初めて病院を受診し、初めて薬を飲んだ。ご主人がとても穏やかに彼女を見守ってくれる方だったので、ほどなくして退院となった。
その人が私の初めての外来患者さんとなった。入院中は毎日診れるので何かあったらすぐ対応できるけれども、外来では患者さんは帰ってしまう。次に来るのは短くても1週間後なので、病棟とはだいぶタイムスパンが異なる。デビューしたての若い医師にとってはかなりこわいものである。
その人は退院して1か月ほどは穏やかな状態で「特にかわりありません」と語っていたのだが、2ヶ月目に入るくらいから表情が険しくなってきて、私の問いかけへの答えもとげとげしくなってきた。そのうち「私の家を監視されてる」「主人に女がいる」等語りだしたので、これは再燃している、まずいなと不安になった。薬の量が足りないのかと思い、私はかなり焦ってセレネースを毎回増量したが、彼女の被害妄想と混乱はだんだんとエスカレートしていった。
3ヶ月目くらいになって、彼女はご主人と一緒に受診した。彼女はひとしきり被害妄想を語った後、混乱してわっと泣きだして、「実はお薬を飲んでいなかったんです」と告白した。今思えば恥ずかしいけれども、私はてっきり彼女は薬をきちんと飲んでいると思っていた(つまりそれだけの信頼関係があると思っていた)ので、薬の量が足りないと思って焦って増量してしまったのだが、単純に怠薬していたのである。ご主人は「私もてっきり、飲んでいるものだと思っていて・・・」と言った。

患者さんというものは、案外薬を飲んでいないものだ。それを私は彼女から学ばせてもらった。病棟ではスタッフがチェックするから飲んでいないということは(たまにしか)ありえないので、全く想定していなかった。
外来という場は難しくて、もっと自由度が高いし、医師と患者の心理の間である種のダイナミクスが起こる。慣れた今ではそれがむしろ楽しいし力に変えることもできるけれども、当時はただ想定外のことが起きるのが不安で仕方なかった。

彼女になぜ薬を飲むのをやめてしまったのか聞いたら、舌がもつれる気がする、何となく頭も働かない、ということだった。ハロペリドールの副作用である。
ハロペリドールは安全で良い薬だけれども、患者さんによっては副作用が出る。副作用が少ないとされる非定型抗精神病薬は、今でこそたくさんあるが、私が研修医だった10年ほど前は、デビューしたばかりのリスぺリドン1種類しかなかった。日本では誰も経験がなかったし、どのような薬か知るには、使ってみるしか方法がなかった。
ハロペリドールのまま量を下げてもう一度飲むように言うか、未知の新薬リスぺリドンにするかの選択を迫られた。私はリスぺリドンを使ってみることにした。「副作用が少ない新しいお薬が出たから、こちらのほうがいいかもしれません」と彼女とご主人に伝えて、おそるおそる少量を処方した。
次に彼女が来るまでの一週間は不安でたまらなかった。もし何か未知の副作用が出たらどうしよう、彼女は医療不信になってもう病院に来なくなるのではないか、と恐ろしい思いでいっぱいだった。他者の体に何かの介入をする、というのは基本的にものすごくこわいことだ。それが医師の仕事なのであるが。

次の受診で、彼女の名前を呼んだ時、また諸々の不安が胸をよぎった。彼女はまたご主人と診察室に入ってきた。
彼女は私に向かってにこやかに笑いかけた。その表情は、見違えるような穏やかさに満ちていて、ちょっとびっくりするほどだった。「なんだか落ち着いてきました。夜も眠れるようになったし。」と彼女は語った。妄想については、「少し心配だが、前よりは気にならない」と言った。ご主人も彼女と同じ笑顔で「今のお薬のほうがいいみたいです」と言った。
その後のフォローでも彼女の笑顔はもっと増えていった。穏やかな日々がまた戻り、受診間隔も2週間、1カ月と伸びていった。「今のお薬なら飲めます。先生のおかげです」と彼女は語った。

鬼のような形相で私を罵倒した彼女が、平和な生活を愛する主婦に戻った。素の彼女はかわいらしい人だった。私に対していつも「忙しくて大変ですね。先生も体に気をつけて」と気づかってくれた。私は病気になった時点の彼女しか知らないけれども、もともと彼女はそういうpeacefulな人だったのだろう。あのとき彼女が怠薬を告白しなかったら、薬を変えなかったと思うし、彼女の平和な一面は長く出てこなかったかもしれない。医師は元気なときの患者さんを通常知らないから、「まあこんなもんだろう」と思ってしまいがちである。

薬。それは何てすごい力。そして何て恐ろしい力。選択しだいで、良くも悪くも人格まで変えてしまうように見える。医師なら必ず経験している平凡な一経験だけれども、若くて未熟な小心者の研修医には、強い印象を残した。

(つづく)

Burma, A Forgotten Country : 「ビルマVJ 消された革命」 (2)

(前エントリよりつづき)

短い旅の間でバガンに行った。バガンは40km四方に3000ものパゴダが点在している世界三大仏教遺跡群のひとつ。
シュエサンドー・パゴダの上から夕暮れを観た。ひたすら静かな夕暮れ。


馬車でパゴダ群を回った。ひたすらのんびり荷台にゆられる。御者のウェンゾーさんは英語が上手で穏やかな人だった。

パゴダの名前は忘れたが、夜にあるパゴダを訪れた。濃い闇の中で金色に浮かび上がるパゴダは、夢の中のような光景だった。
14歳くらいの少女が話しかけてきた。流暢な英語だった。どこから来たのか、何歳か、なぜミャンマーに来たのか、これからどこへ行くのか・・・私たちは互いについてひとしきり話した。
「私は外国へ行けると思う?」と彼女は聞いてきた。それだけ英語が上手けりゃ、いつか行けるでしょ、と私は何気なく答えた。彼女は私をちらりと見て、それ以上何も言わなかった。この時は、まだこの人たちが置かれた政治的状況について考えることもしなかった。

ヤンゴンに戻ってきた。ヤンゴンではどの車もめちゃくちゃ古い。20年物とかはまだ新しい部類に入る。30年前のバスとかが人をドアからはみ出すくらいまで乗せて走っている。バゴーまで行くタクシーの中で聞いたのは、15年落ちくらいのダットサンは700万円くらいするのだと。「日本だったらお金を払って廃車だよ」と言ったら、政府が関税をかけているのだそうだ。それでも車があれば安定した商売ができるので、皆でお金を貯めてなんとか買うのだという。
道路ではいくつか検問があった。銃を持った兵士がドライバーのチェックをしていた。町と町の間の荒れた土地では工事をしていて、ドライバーは「あそこで働かされているのは、囚人だろう」と言った。


シュエダゴン・パゴダを夜に訪れた。ヤンゴンで最も大きな、美しいパゴダだった。闇に浮かぶ有名な観光地なので、英語を話すガイドがいて、3ドルくらいでガイドしてくれた。彼も静かで英語の上手な人だった。彼が「ミャンマーの人たちはフレンドリーでしょう」といったので、激しく同意した。
ミャンマーで私は一度も危ない目には遭わなかった。たまたま運がよかったのかもしれないが。バガンではレストランはどこかと聞いたら意味が通じず、4人くらいのおじさんが集まってきて「はて・・・」と考えてくれた(結局ビルマ語で「タミン(ごはん)」と言ったら通じて、おお~と喜ばれた)。ヤンゴンでも市場付近に少し怪しげな人がいただけで、移動も食べるものも困らなかった。治安もよかった。みな親切だった。

そう、確かに悪い人はいなかった。町の中には。悪い人は、みえないところにいたのだろう。

ビルマVJには、全くの丸腰の無抵抗の僧侶や市民が、兵士に殴られたり銃で撃たれる光景が収められている。驚くほど武装も抵抗もなく、ただ撃たれるだけで、兵士の暴力よりもむしろ市民の丸腰ぶりのほうにかなりの衝撃を受けた。軍政が市民が抵抗できないよう教育レベルも低くしているとも聞くが、それ以上にもともとpeacefulな人たちなのではないかと思う。

あの宗教的な穏やかさに満ちた美しいシュエダゴン・パゴダでも、暴力的鎮圧が起こった。僧侶も一般の人も殴られてトラックに放り込まれ、命を落とした。パゴダで座って、祈りを捧げていた僧侶も含めてである。ヤンゴン周辺の僧侶は3万人ほどいたが、数千人の行方がわかっていない、という説もある。多くの寺院が僧侶の不足により、閉鎖になっているという。未だ捕らえられていたり、還俗させられたりしているようであるが、その正確な数などはわかっていない。

政治的体制は、見る者の立ち位置によっても何が正しいか、というのは異なるだろう。私には何が正しくて間違っているのかはわからないし言うこともできない。
治安のよさは軍政が守ってきたものかもしれない。また、まがりなりにもそれなりの経済活動はできる。アフリカや一部の中東のようにテロが続き、無政府状態になっている国よりははるかにましだろう、という考えもある。
しかし、ささやかな精神的・物質的自由を望んだだけで、殺されたり投獄される国はまだあるのである。市井の人々が望んでいるのはイデオロギーではなく、ただ単に適正な価格で物を買ったり、家族が一緒に健康に暮らせることだけだと思うのだが。

この映画の原案、脚本を担当したヤン・クログスガードは日本の各紙のインタビューでこう語っていた。
「アジアに民主主義的な『価値』を輸出できる日本だからこそ、善悪を考え、どんな行動をとるべきか判断してほしい」
「日本人は人間を大事にすることを示してほしい」

個人がひとりでできることはそう多くはない。でもできることはゼロではない。1988年の時、インターネットはまだなかった。今はネットがある。今回、私は自分とビルマを結んだ縁とこの映画について書いてみることにした。アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にもノミネートされたが、オスカーはこの映画より「ザ・コーヴ」を選んだ。おそらく彼らにとってはミャンマーの人々よりイルカのほうが身近なのだろうと思う。このブログが何らかの解決につながるとはとても思えないけれども、記してみることには意味があるし何らかのもっと大きな力につながればと思う。政治的な善悪はともあれ、穏やかでフレンドリーだったビルマの人たちの幸福を願う。この9月から、第三国定住で日本はビルマの難民を90人受け入れるという(8/27 asahi.comの記事)。日本に来るということは彼らの真なる願いではないと思うが、それでも何かよい体験をされることを願う。

参考図書。

ビルマ仏教徒 民主化蜂起の背景と弾圧の記録―軍事政権下の非暴力抵抗― (世界人権問題叢書71)

守屋 友江 / 明石書店

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Burma, A Forgotten Country : 「ビルマVJ 消された革命」(1)


「ビルマVJ 消された革命」
を観た。
2007年8月、ミャンマー(ビルマ)で起きた、僧侶主導の反政府デモと、それに対する軍事政権の弾圧を記録したドキュメンタリーフィルム。

ミャンマー国内で、軍事独裁国家の苛烈な報道統制を掻い潜り、秘密裏にミャンマー国内の状況を記録し世界へ配信し続けるビデオジャーナリストたちの活動を、一部再現映像も交えてドキュメンタリー風に再構成している。主人公”ジョシュア”はノルウェーのオスロに本部を置く民主化支援メディア、<ビルマ民主の声>の配信を、仲間たちと命を賭して行っている。ビルマでは1988年に大規模な民主化運動が起きているが、この時も軍に弾圧された。今回19年ぶりに起こった、2007年の民主化を求めるデモとその弾圧についてのドキュメンタリーである。

2007年8月、政府が燃料価格を突然500%も引き上げた事をきっかけに、数千人にわたる僧侶たちが主導して各地でデモを開始した。僧侶たちは普段は寺院で自己研鑽のために厳しい修行をしている出家者たちであり、原則政治に介入はしないが、「民衆が苦しんでいるのであれば立ちあがる」とのことである。
映画にも描かれているが、デモにおいて、僧侶たちは政治的スローガンではなく、ただ政府に「和解を」と呼びかけ、托鉢用の鉢を伏せて抗議の意をあらわす「伏鉢」を高く掲げ、読経をしながら行進を続けた。数千人だった僧侶たちの数は、群衆も入れて数万人に増加した。
暴力も煽りもなく、行進をし続けただけの僧侶たちと人々に、軍は鎮圧のため銃口を向けた。フィルムには丸腰で歩く人々に、正面から水平射撃を行う兵士たちの姿がおさめられている。

日本人ジャーナリスト、長井健司さんが兵士の放った銃弾に倒れたのは記憶に新しいけれども、あれからもう3年も経つのか、という気もする。長井さんが倒れたまさにその瞬間もこのフィルムに収められている。それを撮っていたのもこの市井に潜伏するジャーナリストたちだった。

私は2005年にミャンマーに行ったことがある。
前年にひとりで行ったキューバで日本人の旅行者に会って、「どこかよかったところありますか?」と聞いたら、彼が「ミャンマーおすすめですよ。田舎すぎて悪い人がいない」と言ったのがきっかけだった。
悪い人がいない、それは行ってみたい。そんな安易な理由だけでミャンマーに行くことを決めた。

バンコクでヤンゴン・エアーに乗り換えて、着いたときもうヤンゴンは夜だった。
入国審査があると思ったら、高校の模擬店みたいな木枠がついた机があるばかりで、気が付いたら入国手続きもろくになく入国していた。迎えの人や観光業者が勝手に入国審査のゾーンを越えて入り込んで、呼び込みをしていた。
一応観光カウンターと思われる場所でタクシーを頼んだら、やたらに愛想のよいおじさんがやってきてウェルカムと叫びながら荷物を持って行った。やばいのかもしれないが引き返すのも難しいので乗り込んだら、会社で両替してくれるといい、レートを言った。確かミャンマーは銀行等のレートが極端に悪く、ほとんど闇両替だったような気がする。レートは悪くなかったので乗ることにした。彼らはヤンゴンの暗い夜をぼろい車を飛ばして市内に入り、ここがオフィスだと言って私を下ろした。建物に入ったら全く停電していて、真っ暗な中でろうそくをつけ、火の下で札を数えた。ろうそくの炎に揺らぐ初めての異国の人たちの顔はやや不気味だったが、両替額はきっちりあっていた。彼らはきちんと私をスーレー・パゴダ近くのホテルまで送ってくれた。


初めてのミャンマーは「巻きスカートと油とお寺の国」だった。
ミャンマーでは男性もロンジーという巻きスカートを履いている。あと市民のほとんどの足元靴ではなくはゴム草履が定番だった。走る時、ロンジーの結び目がほどけやすいので、前で結び目をもって小走りに走る姿がなんだかかわいかった。
食事は基本的においしいいのだが、なぜかどの料理も油が大量に使われていて、いつも油が数mmの層になっていた。それだけ大量の油を食べるのに、ミャンマーの人たちはみなやせていて、チョコレート色の肌のつやに油気を感じるだけである。顔立ちも隣国のタイヤベトナムとはちょっと違ってすっきりしていて、若い子はみなびっくりするほど美しかった。
ミャンマーはほんとうに敬虔な仏教国である。日本のお寺はお堂の中で祈るが、ミャンマーの寺院はパゴダと言って、屋外に仏塔が並んでいて、そこでお祈りをする。
パゴダは日本と違ってきらびやかな金色に塗られ、仏像も電飾で飾られている。仏は光り輝く存在、ということらしい。上座部仏教なので、僧侶たちは自分の悟りを得るために寺院で修行している出家者で、一切の金品は受け取らず托鉢のみで日々の修行を行う。在家の人々には僧侶は愛と尊敬を持って迎えられる存在である。人々はパゴダで朝に夕に座り、祈りを捧げる。それはほんとうに穏やかな、静かで心打たれる風景だった。

(つづく)

The Boundaries of the Limitless


「樹木は育成することのない
無数の芽を生み、
根をはり、枝や葉を拡げて
個体と種の保存にはあまりあるほどの
養分を吸収する。
樹木は、この溢れんばかりの過剰を
使うことも、享受することもなく自然に還すが
動物はこの溢れる養分を、自由で
嬉々としたみずからの運動に使用する。
このように自然は、その初源からの生命の
無限の展開にむけての秩序を奏でている。
物質としての束縛を少しずつ断ちきり、
やがて自らの姿を自由に変えていくのである。」 フリードリッヒ・フォン・シラー

先日東横線が止まってしまったので、みなとみらいから桜木町まで歩きました。

クイーンズスクエアの地下から上層階を貫通する巨大な吹き抜けの壁に、ドイツの詩人・劇作家のフリードリッヒ・フォン・シラーの言葉が刻まれています。

できた当時から何度も目にしているのですが、ここを通る度に一通り読んでしまいます。そして読む度にある種の感動と、少しの違和感をいつも感じます。
日々大量消費と経済活動が行われるこの大きなビジネス・コンプレックスの建設にあたって、一見不釣り合いにも見える、自然のいとなみの本質を記述するシラーの言葉を、なぜこんなにも大きく掲示したのでしょうか?
ちょっと気になって調べてみたら、この作品はアメリカの現代美術の作家 Joseph Kosuth の作品でした。
Kosuthといえば私には「椅子の人」

” The Boundaries of the Limitless ” 1997
材質 白色ネオン管、黒御影石
サイズ(HxW) 22mx14m 
*デンマーク王子アウグステンブルク公にあてた美学的なことに関する書簡第27号より一部を抜粋

*クイーンズスクエアのサイトより 
http://www.qsy.co.jp/htm/f_art.htm
「ジョゼフ・コスース: 1945年アメリカ生まれ、アメリカ在住。コンセプチュアルアート(概念芸術)の第一人者として世界的にも著名なアーティストです。今回は、ベートーヴェンの交響曲第9番の詩の作者として有名なフリードリヒ・シラーのテキストを引用して、現代が直面するエコロジカルな問題を、ネオン管と石を用いて巧みに表現しています」

自然はいつも大量に創造し、大量に生産しています。植物は無事芽吹くことができるよりはるかに膨大な種を実らせ、魚は成魚にまでならない卵を大量に生みます。しかし、自然は産み出したものをただのごみにすることはありません。余った種や卵は他の生物に食べられたり、分解されてまた養分になったりすることで、次の生命の滋養となります。
人間はその大量生産だけを真似ていますが、人間の創るものはいつも不完全で、使われなかったものはごみになってしまいます。リサイクルされて次のもののために使われるには長い年月がかかりすぎたり、大量のエネルギーを消費しなければならなかったりで、自然に比べてなんて効率が悪いのでしょうか。でも、時には、人間の創ったものが、人間や他の生命にとっても何らかの希望をもたらすこともあります。

個人的には、言葉も同じではないかと思います。日々の会話や、blogやtwitterなどネット上で、さまざまな言葉が大量に流れていきます。それらはきちんと読まれるものもあり、ななめにしか読まれないものもあります。しかし、読まれない言葉も、ただ通り過ぎるようでいて、私たちの無意識に何らかの印象を残していきます。美しくやさしい言葉はそういう印象を残すし、毒を含んだ言葉は少し私たちの内部に毒を残していきます。
そういうさまざまの印象が集まって、C.G.Jungの言う、いわゆる集合的無意識を作っていくのではないかなーと思います。私たちは言葉や行動によって、集合的無意識の創造を日々行っているのではないかなあと。そう思うと、せめて可能な範囲で、読まれずに流れたとしても、ごみにならずに滋養になるような言葉を使っていきたいように思います。と思いながらくだらないtweetをまたしてしまうわけですけど。

この大きな御影石に書かれた言葉は、まるで大量消費社会への警告のようです。でもそれを消費と経済のセンターである場所に皮肉のように大きく掲げることで、何らかの自戒と贖罪を込めているのかしら、と深読みしてしまいました。

「物質としての束縛を少しずつ断ちきり、
やがて自らの姿を自由に変えていくのである」
そのようにありたいと切に願います。

ドイツ語の原文は下に。

Der Baum treibt unzahlige Kieme,
die unentwickelt verderben und
screckt weit mehr Wurzeln, Zweige und Blatter
nach Nahrung aus als zu Erhaltung seines Individuums
und seiner Gattung verwendet werden.
Was er von seiner verschwenderischen Fulle
ungebraucht und ungenossen dem Elementarreich zuruckgiebt
das darf das Lebendige in frohlicher
Bewegung verschweigen. So giebt uns die Natur
schon in ihrem materiellen Reich ein
Vorspiel des Unbegrenzten und hebt
hier schon zum Teil die Fesseln auf deren sie sich
im Reich der Form ganz und gar entledigt

FRIEDRICH VON SCHILLER

traffic goes on, as usual, unchanged.

小学5年のとき引っ越してから、転校したくなくて電車通学になったので、子どもの頃から電車やバスは乗りなれている。地下鉄で通うようになってまっさきに行ったのは、神保町の三省堂と銀座の山野楽器で、家にも学校の近くにもない本とレコードを買った。電車は、私の物質的、精神的な自由を大きく広げてくれた。
中学高校も電車通学だったので、一時期は地下鉄路線図はすべて頭に入っていた。路線図をみると都市の血管のようだ。止まればたちまちあちこちの臓器が虚血に陥るように、都市の活動が停滞する。制服できびきびと運行を守る駅員さんたちは好ましく見えた。

今もかけもちで仕事をしているので、やはり電車での移動が多い。昼の時間はほとんど移動している。

そんな移動好きな血のせいか、縁あって交通系の会社で相談をするようになった。
ややレアな職種の相談をやってみて気がついたのが、やはり交通はちょっとレアな職種だなーということだった。
まず、勤務の時間が、少なくとも現場ではシフト制なので、3勤1休とか、ちょっと特殊なリズムになっている。シフト制の職場は色々あると思うけれども、職員さんたちの多くはそれに慣れているので、普通に日勤のほうがしんどかったり、通勤ラッシュにあたるので大変だったりする。
また、チームワークがとても重要なので、仲間意識がとても強い。特に電車の場合、始発から運行を守るには、かなり助け合う必要がある。毎晩、泊まり込んで朝から互いに声をかけあっているのである。
私は最初、遅延した時などの乗客からのクレーム等で大変だろうな、それでうつになったりするのかな?と思っていたのだが、案外そういうことは今までほとんどなかった。クレームが多すぎて慣れるのかもしれないがそれにしても、「お客様対応」という言葉は職員さんたちの無意識レベルまでしみ込んでいるかのようで、乗客へはどのようなことがあっても最優先で対応する、ということは疑問なく体が動くようである。むしろずっと一緒に働く仲間うちでのトラブルのほうが、ずっと大きいストレス源になるようだ。

何よりも、交通系の職員の人の至上命題は、「安全に運行すること」と「ダイヤを維持すること」だ。
つまり、「何事もなく変わらない」ことが彼らにとって最善なことなのである。何か不測の事態が起きれば、それを最善の努力を尽くして元に戻すことが、彼らの職業上の倫理なのである。
日本の鉄道のダイヤは世界一正確だとよく言われる。パリに行ったとき目撃して驚いたのは、地下鉄の運転台に何人か運転士の友達みたいな人が乗ってふざけあっていて、運転士が台に足をのせて片手で運転していたことだった。まず日本ならありえない(パリでもありえないことなのかもしれないけど)。日本の鉄道は、運転台が見えること(外国ではプライバシーを理由に目隠しのカーテンが引かれているところが多いらしい)と、職員の人がきちんと制服を着て指差し確認などをしている姿が、「職業意識が高く好ましい」と世界の鉄道ファンにも人気、と何かで読んだことがある。
もう15年も経つけれども、地下鉄サリン事件の時の営団地下鉄の職員の方々の文字通りの献身を思い出す。今も時々、「アンダーグラウンド」を読み返したりもする。

これだけ変化が要求される世の中で、「変わらない」ということにこれだけ努力している人たちがいて、その上で自分たちの生活が守られているのだなーということに何となく感銘を受ける。
もちろん接客だって過去よりずっと丁寧になったし、自動改札になったりSUICAが導入されたり、時代の変化に合わせて否応なく変わっていっている部分もある。しかし、機械のように世界一正確な日本のダイヤは、泊り込んだ職員さんたちが朝互いをきちんと起こしてみそ汁をつくったり、といったアナログな努力によって始発から保たれているのである。その結果として、私たちは今日も普通に仕事に行ったり遊びに行ったりできるのである。

というわけで今日も電車が動いていることに感謝いたします☆