私の3.11

1年前の2011年3月11日の午後2時46分。
私は中央区にある会社の高層階の診療所で診療していた。患者さんと話していたときに、大きな揺れが来た。初めはすぐおさまると思い、面接を続けていたが、そのうちに大きなキャビネットが大きく揺らぎだした。揺れはとても長くて、これはだいぶ大きい、と思った。その日、たまたま患者さんの母親がついて来ており、廊下で待っていた。その人は「母の様子を見てきます」と部屋を飛び出した。
私は小学校で教わった通り、机の下に入った。3つ並んだ背の高いキャビネットは倒れそうなくらい揺れた。こういうとき、幼い頃に教えられたことは案外習性に刻まれているものだなと思った。机の下にいればなんとなく安心な気がした。

ものすごく長く揺れた気がしたが、数分しておさまってから、患者さんが母親と戻ってきた。母親に「大丈夫でしたか?」と聞いたが、「大丈夫です」と困ったような笑顔を浮かべたあと、普通に患者さんについての話をしはじめた。私もその話を普通に聞いていた。
自分の後ろから、面接をする自分を見つめる自分がいた。何だか滑稽な気がした。たぶん、外では大変なことがあったような気がする。でも、私たちはいつもしていることをいつものように続けるしかないのだった。
面接が終わったあと、職員の詰め所に行くと、職員たちが窓のところに集まっていた。「あれ、、」と若い女性の職員が指差す方向のお台場では、煙が上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社内では本棚が倒れたりしたが職員の怪我などはなく、大きな被害はないらしい、という情報が流れてきた。TVは地震のニュース一色で、そのうちに津波の映像が流れ始めた。初め色めきたっていた職員たちは次第に言葉すくなになっていった。TVの中では濁流が街を次々に飲み込んで行く様子が流れ続けていた。
その日は予約が少なかった。そのあと一人だけ診察に来たが、やはりいつもと同じ話、同じ悩みを話していった。いまこの瞬間、東北の各地で街が消えていっている。だけど、ここ東京では、人の話す悩みはいつもと同じなのだ。奇妙だと思った。あちらは彼岸でこちらは此岸となり、間のどこかの時空に線が引かれたような気がした。

そうこうしているうちに午後5時になり、自宅が遠方の職員たちは帰れないと踏んで、会社に泊まる決断をしていた。私は徒歩で帰るかどうかしばらく考えた。徒歩帰宅の限界は20km、たぶんそんなにない。iPhoneのgoogle mapでみると家がある目黒区まで14km程度。靴はブーツだけどヒールではない。それくらいならいける、と考えて、私は午後5時半頃に出発を決めた。停電したビルの階段を下りていった。「先生、気をつけて」と声をかけられた。

昭和通りはもう結構な人が歩いていた。銀座へ出たら号外が配られていて、人々が集まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日比谷公園から霞ヶ関へ出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

溜池の交差点は車も人も混雑していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方にこんなに歩道を人が歩いている。みなどこへ行くのだろう。自宅まで帰るのだろうか。それともどこかまで行って時間をつぶそうとしているのだろうか。でも歩道を歩く人たちの表情はどこか高揚していて、あまり暗いものではなかったのが印象的だった。巡礼のようだ、と思った。

頭にヘルメットをかぶり、アルミシートでからだをくるんだ人もいた。用意のいい会社なのだろう。でもヘルメットを手に持っている人もいて、かぶったらいいのに、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

車はもう渋滞で全く動かない。豊川稲荷でお参りした。

 

ドコモの携帯は全然通じない。ソフトバンクiPhoneのgoogle map は動作したので力づけられた。まだいけると思って歩いた。

色々な通信手段の中でtwitterだけが通じていた。Twitterからは膨大な情報が流れて、特に役立ったのは避難場所の情報だった。会社や学校がロビーを一晩解放している、など。青山学院大学が避難者のためにロビーを開放したという情報をみて、行き倒れたらそこで過ごそうと考えた。

246に入ると、少し疲れてきた。少し休みたいが、マクドナルドやドトール、スターバックスなど軒並み閉店していた。チェーン店はこういうときに安全が確保できないと閉めてしまうのだなと思った。個人営業のお店はわりと開いていた。

3月11日は寒い夜だった。7km程度ですでに身体が冷えきって、246のオリンピック青山店に暖をとりに入った。びっくりしたのは、自転車を買う人の列が20人ほどできていた。また、運動靴を買ってはきかえる女の子もいた。
階段で15分ほど座って休んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いているうちに寒くてたまらなくなった。Twitterで自分の居場所を中継しながら歩いたが、高校の級友が、「大変そうだったら、うちの実家に連絡してみたら」とDMをくれたことに励まされた。お言葉に甘えようかと思ったが、電話が通じず断念した。

青山学院の前のBLENZ caféがひとつだけ20時までということで開いていた。すでに19時を過ぎていたが、コーヒーだけでも欲しくて入った。席はもういっぱいだった。
でもコーヒーで暖まることができた。

渋谷の宮益坂を下りたら、公衆電話に行列ができていた。宮益坂下の交差点にあるりそな銀行の中に、ほんとうに途方にくれたようなおばあさんがいたが、銀行の人なのか、どこかのお店の人なのか、若い男性が丁寧に避難場所や電車の運転見込みなどの情報を伝えていた。自分も早く帰りたいだろうに、日本の人の職業意識ってすごいなと思いながら通り過ぎた。単に親切な人だったのかもしれない。

恵比寿駅は閉鎖され、ホームには山手線が止まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

目黒駅まで歩いたらぎゅうぎゅうのバスが来た。もうここまででひどく疲れて寒かったので、バスに乗った。徒歩の避難は案外歩けない。季節にもよると思うが、もう少し遠かったら、基本的には動かない方がいいなと思った。

自宅に帰ったら、写真立てがひとつ落ちていただけで拍子抜けした。それよりTVから次々流れる津波の映像がこわかった。
もちろん、その時点ではまだ福島第一原発に起きている事象について知るはずもなかった。

そのあとの週末2日間はTVとtwitterに釘付けだった。何が起きているのかわからない、でも自分の周りとTVの中の被災地は確実に切り離されている。節電の呼びかけで、部屋の電気をつけずに毛布にくるまってろうそくで過ごした。
あの日から1年。もう1年とも、まだ1年とも思えない。むしろ、2011年3月11日以前の日々のほうが、ずっとリアリティが薄い。震災以来、地震と原発事故は日常に組み込まれて、もう数十年も以前からずっとその事実とともに暮らしてきた気がする。不安でフリーズしてしまうこともないかわりに、鈍感になってもいると思う。

でも、この1年、被災地に少しだけ行ってみたりしている結果、色々な思いが交錯するけども、ひとつだけ言えるのは、「人は悲しむほうがより容易で、楽しむほうがより難しい」ということだ。悲しみによりそうこと、それをした後に、悲しみの中に隠れている楽しみや、笑い、大事にしたいもの、それらを力づけること、それが人を立ち上がらせる。被災しなかった人は、被災しなかったがゆえに、当事者の悲しみをすべては理解できない。でも悲しみがわからないからこそ、力づけることもまた可能なような気もする。

今もまだ現在進行形のさまざまな問題は、数年から数十年以上、私たちとともにあって、それを包摂してなお私たちは生きる。ただ生きるだけで、それはすでに問題に対して何かしていることなのであり、今いる場所で何かできることをする、それはさらに何か取り組んでいることになるのだろうと思う。被災された人たち、そしてその人たちを助けようとして努力されている人たちに、心からのエールを送ります。私も遠くても、すぐに目に見えなくても、何かできることをしていきたいと願います。

 

私の3.11」への2件のフィードバック

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