月別アーカイブ: 2010年9月

薬 x 言葉 = EBM + 陰陽道 (2)

(前エントリより続き)

以来私は薬物療法にとても関心を持つようになった。ほんとうは創薬に携わりたいと思っていた。
ポール・ヤンセンという化学者がいる。今は大企業のヤンセンファーマの創立者である。
ヤンセンは1957年に抗精神病薬ハロペリドールを創ったのみならず、1986年にはピパンペロンから非定型抗精神病薬リスぺリドンを創出した。精神科医しかわからなくて申し訳ないけれども、この2剤がどれくらい精神科薬物療法史に大きな飛躍を生んだか、言葉で語れないくらいである。この2剤を世に出したヤンセンは、若い頃の私にはほとんど「ネ申」降臨だった。

ピパンペロンという薬はもはや絶滅寸前なのだけれど、不安焦燥を伴う軽い妄想には副作用も少なくかなり穏やかにおさめてくれる優れた薬剤だった。私の指導医たちはピパンペロンをほぼ「愛して」いた。ここでは詳しくは書かないけれどもkyupin先生のブログに詳しい。
ピパンペロンの副作用の少なさや有用性に着目して、幻覚妄想により効果を強めたリスぺリドンを創りだしたことは、ほんとうに炯眼だと思う。ヤンセンは、化学物質に関して優れた目をもった人なのだろうと思う。1つの発見は偶然でも起きるが、2つ目の発見は優れた観察がなければ起こらないと思う。

最近の薬はこういう観察から入ることなく、何とか基を少しいじって副作用が10%減りました、効果は同等です、というようなものが多いような気がする。ひとつのグループにずらりと同効薬が並ぶ。こういうのを” Me too drug “と呼んでいる。あまりにも「ま、このへんでウチも出しとくかな」なMe too感があふれた薬は使ってみてもなんとなくイマイチである。Chemistにはぜひもっとがんばってほしい。
でもMe too drugsですら、精神科のような繊細な領域にはやはり感触の差があって、やはり君は世に出るべくして生まれてきたのだね!と思うことがある。選択肢が多いのはややこしいけれども、やはりないよりはいいことだと思う。薬だって人間と一緒だ。生まれてきたからにはなにか輝く立ち位置があるはずである。その質をいつも知りたいと思っている。

「頭とハサミは使いよう」というけれども、精神科医にとっては「言葉と薬は使いよう」である。というか、その2つしか通常の病院診療ではツールがないのである。もっとあったらいいのだけれども、通常はその2つの「不器用な武器」の使いようを地道に磨いていくしかない。
薬は副作用もあるし、不便で不完全なアイテムである。特に人間の精神に対しては、繊細な織りの入った和紙の上に大きなペンキの刷毛で書を描くような、いらいらするほど大味なものでしかない。けれども、今ある道具を使うほかない。書きたいものに合わせて少しでも近い刷毛を選んで、細心の注意を払って書く努力をするのが、こちらの仕事である。
上記の患者さんのように、人間の精神はそれが活動するための物質的な基盤というものは、やはりある。そして、その人の精神が再び輝き出すために、脳および体の状態の微妙なバランスを調整するには、繊細に感じ取ろうとする努力と謙虚さ、その人の精神と身体への敬意が必要である。さらに言えば、治療の道具として使われる薬自体への敬意があったらいいと思う。それがあれば、いい加減な使い方にはならないはずだ。イチローがグラブを、音楽家が楽器を大事にするのと同じことだと思う。

EBM、Evidence Based Medicineは、その治療や薬が、色々な人に平均的にどのような実績をなすことができたか教えてくれる。若くて経験が限られているが、日々の患者さんの少なくとも安全を守らなければならない医師にとっては、転ばぬ先の杖のように「無難な」治療を教えてくれる。
でも目の前の患者さんにとって何が最短で最善の道かは、Evidenceも含めた知識も総動員した上、五感もフルに働かせてその人の状態を感じ取り、薬の持っている「性質」も感じ取るようにして、個別に考えて判断する必要がある。それが医師の真の「裁量」であり「匙加減」だと思うし、良医は必ず、この薬はこういう状態の人にいい、という印象を自分の経験の中に蓄積している。
EBMは大きな意味があるけど、もし治療の手順がどんな人にも同じように標準アルゴリズム化して、それ通りの順序と時間で行わなければならないという縛りができたら、治療というものは行う側も受ける側にとっても、かなり厳しいものになるだろうと思う。実際ヨーロッパではEUの成立にともなって、そういう標準化の動きもあるようである。

急に怪しげな言い方になるが、「陰陽師」にたとえると、私は(少なくとも精神科医にとって)処方箋は「式神」だと思うし、言葉はまさに「呪(しゅ)」だと思う。
式神はその式神の質を把握して効果的な場面で飛ばす必要があるし、それすらも「呪」による”場の設定”次第で働き方も変わってくる。薬と言葉は相乗的な効果を持つ。だから言葉にも気をつけなければいけないなと思う。薬は物質だから、誰が出しても忠実に同じ動きをしようとするけれど、働く”場”は人間の中である。人間の精神は言葉や感情によって影響も受けるから、同じ薬でも”場の設定”次第で、効果も違ってきてもおかしくない。
ポール・ヤンセンは陰陽師だったのか?まあたぶん違うでしょう。でも事物をよく観察して性質を知ろうとした点で、真の科学者だし、一種の錬金術師だったかもしれないとも思う。ドクター(特に若いドクター)や薬剤師の皆様、化学者の方々はそれくらいのMagicを扱っていると思ってやってほしい、気がする。

ある代替医療の治療家が、「医者は名誉の廃業をめざすべきだ」と言っていた。要は、治療する病気がなくなるくらいの世を目指せということだ。知り合いの歯科医からその言葉を聞いたときに、私自身はその通りだと思った。内科がなくなったら皆が困ると思うけど、精神医療は、なしでやれるなら、ないほうがいいと思っている(現にイタリアでは長期入院をさせる精神病院はなくなった。)。だから、今後その時が来たら、いつでも違う仕事に移るつもりはある。
最近、精神医療の排斥キャンペーンをちらほら目にするが、これらは精神医療における薬物療法の害を主に主張しているようである。それはまったく指摘の通りの現状である。ただ、精神科にかかろうと自ら思うくらいに追い詰められた人たちに、最近、精神医療の排斥キャンペーンをちらほら目にするが、これらは精神医療における薬物療法の害を主に主張しているようである。それはまったく指摘の通りの現状である。ただ、精神科にかかろうと自ら思うくらいに追い詰められた人たちに、代わりに何をすることができるのか、その議論はあまりされていないようだ。

とにかくまずは価値判断なしに、その人が懸命に生きてきたという、そのこと自体に耳を傾けること、そのことだけでもその人はかなり救われる。誰でも皆不完全だし誤ったこともするから、批判はしないで、まずはその人がしている努力について、聞いてほしい。薬は医者しか使えないけれども、言葉の力は、もちろん精神科医だけのものではない。誰でも平等に使うことができる。言葉を、「呪い」にするか「救い」にするかは、ほんとうに選べるのである。
世の中のすみずみまでそんな力が満ちて、精神科の看板を下ろすときが来たら、私は喜んで次の職を探す用意ができている。第一候補は占い師か陰陽師かな。似たようなものかと思うので、転職しやすいかな、と(^ ^;)。

薬 x 言葉 = EBM + 陰陽道 (1)

研修医だった頃、指導医について薬物療法を学んだ。似たプロフィールの薬が大量にあるので、最初は本当にわけがわからなくて、まるで大量の外国語の単語のようだった。たまたま私の指導医たちは、経験豊富でしっかり薬物療法の体系ができている先生たちだったのと、チェックはしつつも「やってみたら?」と言ってくれる人たちであったので、割と早い段階からおそるおそる自分で処方を考えた。抗不安薬一つ出すのに、胃が痛くなるほどどれがいいか考えて、出したあともこれでベストだったのかどうか、本当に悩んでまた胃が痛くなった。

処方は実際使ってみるのが一番勉強になる。一番参考になるのは患者さんの表情で、合っているときは必ずやわらぐ。顔色も状態が悪い時はグレーに淀むけど、バラ色の輝きが出て、澄んでくる。声をかけたときの患者さんの一瞬の反応とか、体の無意識の動きから緊張が抜けてきて、話す内容や声のトーンが穏やかなものになるなどの変化がみられる。こういう判断は、別に医師だけが判断できる特殊能力ではなく、誰でも観ればわかる、ごく当たり前の能力である。検査値を読むのはトレーニングがいるけれど、精神的な回復はだれでも観て明らかなものである。

私が研修医の頃、ある中年の女性が、激しい興奮と被害妄想で入院してきた。私を罵り、暴れてひどい状態だったのだけれども、ハロペリドールという薬を処方してわりとすぐに被害妄想と興奮は治まり、穏やかになった。彼女はたぶん若い頃から病気自体はあったと思われたのだが、そう大きな問題にならなかったので、今回人生で初めて病院を受診し、初めて薬を飲んだ。ご主人がとても穏やかに彼女を見守ってくれる方だったので、ほどなくして退院となった。
その人が私の初めての外来患者さんとなった。入院中は毎日診れるので何かあったらすぐ対応できるけれども、外来では患者さんは帰ってしまう。次に来るのは短くても1週間後なので、病棟とはだいぶタイムスパンが異なる。デビューしたての若い医師にとってはかなりこわいものである。
その人は退院して1か月ほどは穏やかな状態で「特にかわりありません」と語っていたのだが、2ヶ月目に入るくらいから表情が険しくなってきて、私の問いかけへの答えもとげとげしくなってきた。そのうち「私の家を監視されてる」「主人に女がいる」等語りだしたので、これは再燃している、まずいなと不安になった。薬の量が足りないのかと思い、私はかなり焦ってセレネースを毎回増量したが、彼女の被害妄想と混乱はだんだんとエスカレートしていった。
3ヶ月目くらいになって、彼女はご主人と一緒に受診した。彼女はひとしきり被害妄想を語った後、混乱してわっと泣きだして、「実はお薬を飲んでいなかったんです」と告白した。今思えば恥ずかしいけれども、私はてっきり彼女は薬をきちんと飲んでいると思っていた(つまりそれだけの信頼関係があると思っていた)ので、薬の量が足りないと思って焦って増量してしまったのだが、単純に怠薬していたのである。ご主人は「私もてっきり、飲んでいるものだと思っていて・・・」と言った。

患者さんというものは、案外薬を飲んでいないものだ。それを私は彼女から学ばせてもらった。病棟ではスタッフがチェックするから飲んでいないということは(たまにしか)ありえないので、全く想定していなかった。
外来という場は難しくて、もっと自由度が高いし、医師と患者の心理の間である種のダイナミクスが起こる。慣れた今ではそれがむしろ楽しいし力に変えることもできるけれども、当時はただ想定外のことが起きるのが不安で仕方なかった。

彼女になぜ薬を飲むのをやめてしまったのか聞いたら、舌がもつれる気がする、何となく頭も働かない、ということだった。ハロペリドールの副作用である。
ハロペリドールは安全で良い薬だけれども、患者さんによっては副作用が出る。副作用が少ないとされる非定型抗精神病薬は、今でこそたくさんあるが、私が研修医だった10年ほど前は、デビューしたばかりのリスぺリドン1種類しかなかった。日本では誰も経験がなかったし、どのような薬か知るには、使ってみるしか方法がなかった。
ハロペリドールのまま量を下げてもう一度飲むように言うか、未知の新薬リスぺリドンにするかの選択を迫られた。私はリスぺリドンを使ってみることにした。「副作用が少ない新しいお薬が出たから、こちらのほうがいいかもしれません」と彼女とご主人に伝えて、おそるおそる少量を処方した。
次に彼女が来るまでの一週間は不安でたまらなかった。もし何か未知の副作用が出たらどうしよう、彼女は医療不信になってもう病院に来なくなるのではないか、と恐ろしい思いでいっぱいだった。他者の体に何かの介入をする、というのは基本的にものすごくこわいことだ。それが医師の仕事なのであるが。

次の受診で、彼女の名前を呼んだ時、また諸々の不安が胸をよぎった。彼女はまたご主人と診察室に入ってきた。
彼女は私に向かってにこやかに笑いかけた。その表情は、見違えるような穏やかさに満ちていて、ちょっとびっくりするほどだった。「なんだか落ち着いてきました。夜も眠れるようになったし。」と彼女は語った。妄想については、「少し心配だが、前よりは気にならない」と言った。ご主人も彼女と同じ笑顔で「今のお薬のほうがいいみたいです」と言った。
その後のフォローでも彼女の笑顔はもっと増えていった。穏やかな日々がまた戻り、受診間隔も2週間、1カ月と伸びていった。「今のお薬なら飲めます。先生のおかげです」と彼女は語った。

鬼のような形相で私を罵倒した彼女が、平和な生活を愛する主婦に戻った。素の彼女はかわいらしい人だった。私に対していつも「忙しくて大変ですね。先生も体に気をつけて」と気づかってくれた。私は病気になった時点の彼女しか知らないけれども、もともと彼女はそういうpeacefulな人だったのだろう。あのとき彼女が怠薬を告白しなかったら、薬を変えなかったと思うし、彼女の平和な一面は長く出てこなかったかもしれない。医師は元気なときの患者さんを通常知らないから、「まあこんなもんだろう」と思ってしまいがちである。

薬。それは何てすごい力。そして何て恐ろしい力。選択しだいで、良くも悪くも人格まで変えてしまうように見える。医師なら必ず経験している平凡な一経験だけれども、若くて未熟な小心者の研修医には、強い印象を残した。

(つづく)