投稿者「Mahiru」のアーカイブ

ひりひりする孤独の、光と熱と「中動態」 – 書評「ギリシャ語の時間」

ハン・ガン「ギリシャ語の時間」(晶文社、斎藤真理子訳)を読んだ。
ソウルを舞台に、遺伝性の病気で視力を失いつつある男と、離婚で子どもを失い声を失った女の運命が交錯する。カルチャーセンターで古典ギリシャ語を教える男は、思春期からドイツで沢山の痛みとともに生育し、数年前にひとり母国に帰国した。韓国語とドイツ語の間で割れてしまった彼の人生。職業として選んだのは、もはや人の間では話されることのない死語、古典ギリシャ語を教えることだった。女は職業と子どもと声を失い、”自分の意志で言語を取り戻したい”と願い、しかし話すことのないまま古典ギリシャ語の教室に無言で通い続ける。

ふたりはそれぞれの痛みを抱えているが、ひとりは外の光を受け取ることができなくなりつつあり、ひとりは自らの音を出すことができなくなっている。それは互いに理解することのない痛みである。しかし、発されないままの痛みはどこかで解放されることを求めていたのかもしれず、互いのことを知らず想像することもないまま、ふたりの運命は突然交錯する。

物語の中で、布石となるのが古典ギリシャ語の活用だったり、単語だったり、詩であったりするのだが、中でも中動態が出てくるくだりがある。
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現代の悪魔祓い

1ヶ月ほど前になるが、「悪魔祓い、聖なる儀式」のドキュメンタリー映画を観た。イタリアのシチリア・パレルモのとある教会。カタルド神父はエクソシストの資格を持つ神父であり、火曜日の悪魔祓いの日にはシチリア内外から希望する人が集まる。その様子を一切のナレーションや音楽もなく、淡々と記録した記録映画である。
実はその前に韓国のホラー映画、「哭声(コクソン)」を観て、これも悪魔祓いを巡る話、ひいては「誰を、何を、どうして、どのように信じるのか?」というテーマの話だった。この映画に出てくる韓国の悪魔祓いの儀式は、祈祷師が色とりどりの衣装を着て、屋外で火の周りで動物の死骸を吊し太鼓を打ち鳴らし叫び回る大変派手なものだった。対決する國村隼演じる祈祷シーンは、密室のろうそくの火の中で白装束で唸る、というものでそれも日本ではありがちな描写ながら國村の形相が抜群に恐ろしかったのだが、日韓の悪魔祓い儀式の姿勢の違いというか、こもった怨念の日本、アッパーなフェス系韓国という対比がおもしろかった。映画好きな韓国の友人に聞いたところ、韓国ではかなりこの映画は社会現象になったらしい。そして韓国でも悪魔祓いの需要は高くて、自分の友人は大学で悪魔祓いを教えているから紹介してあげようか?コクソンに出てきたやつだよ、と言われ、あれは本当にやっている儀式なのかととても驚いた。大変に興味を引かれたものの、火中にわざわざ飛び込むのは自分が憑かれそうな気がしたので遠慮した。
そんなこともあり悪魔祓いに関心を持ったのもあり、また去年パレルモに訪れてとても美しく親しみのある街で、それでこの映画も観ようと思っていたのだった。
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Twitterとじました。

長らく迷っていたが7年続けたTwitterアカウントは閉じた。寂しくなるかと思ったが、むしろほっとした。たくさんの出逢いがあったが、なんかしばらくはもう出逢わなくていいかなという気持ちになったのと、断片化された言葉や情念、思考のかけらが大量に流れてくると自分の中に失敗したテトリスのように積み上がってきて、いっぱいいっぱいになり終了、という感じが一番近いような気がする。SNSは出逢いのためのフォーマットが揃っていることで、そこにいる人と平等に出逢うことができるが、逆に人の決めたフォーマットの上に乗って言葉を発しているとそのお作法が結局だんだん息苦しくなる。自分は枠組みが苦手な傾向があって、仕事もそうやってあんまり気が進まなくなっていったし(適応しようとかなりがんばったが)、共感されても支持されても批判されても、結局他者から何かを向けられるとそれを拾おうと一生懸命になってしまい、自分の中にもやっとあって排出したかったものを見失ってしまう傾向があるので、自分で管理できるブログのほうがしばらくいいかなと思った。Twitterの素敵だったアカウントを思っては懐かしんだりするが、自分がその中に入って交流しなくとも外から見ていても充分楽しめるので、時々検索しては眺めている。それで充分である。もしまた何かを広く発信して広く人と出逢いたくなったらTwitterのアカウントを作るかもしれないが、まあもうしばらくはいいかな。自分の自由に集中したいと思う。

To be original, or not ?

少し前のことになるが、ロバート・キャンベル氏と多和田葉子氏のとある学会での対談を、たまたまインターネットで観た。普段あまり聴くことのない文学的な対談で、ドイツ在住でドイツ語でも著作のある多和田氏の特異な言語感覚もあってとても興味深かったのだが、その中でcultural appropriateという概念について語られていた。
私はその概念について初めて知ったのだが、cultural appropriationとは、その文化に属さない者がある文化の因子を取り入れることで、いわば文化の盗用のことらしい。キャンベル氏は和服が好きでよく着るようなのだが(私も上野か本郷で和服を着たキャンベル氏を見かけたことがある)、いわゆる欧米人の前では、それはおかしい、と思われることがあるとのことだった。日本人からは言われないとのことである。なので、どうも、cultural appropriationというのはその文化の人から出た盗用の不服申し立てというよりは、その文化に属さない人々の側から出る違和感のようなものなのだろうか。appropriateという単語、長らく適切なという意味しか知らなかったのだが、今回初めて「私物化する」という意味もあるのを知った。
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SNS

2010年から続けてきたtwitterのアカウントを閉じるかどうか悩んでいる。沢山の良い出逢いと濃い経験があったけれども、大相撲で言うと6勝9敗くらいの感じで、結果的に消耗するほうが多かったようにも思う。維持することに疲れてきているのも確かで、ネットの空間に墓標のように置いておくよりは、綺麗に灰にしたほうがよいかな、そしてまた始めるなら新たに始めるほうがよいかなと思っている。アカウントは削除したので30日経てば完全に消えるが、過去には復活したりまた消したりしていて、まだ迷いもあることは確かだ。
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