投稿者「Mahiru」のアーカイブ

人間の尊厳を修理するということー映画評「女を修理する男」

ドキュメンタリー映画「女を修理する男」を観た。

コンゴの産婦人科医、デニス・ムクウェゲ氏のことは2018年のノーベル平和賞を受賞で初めて知った。コンゴ東部のルワンダとの国境地域には今も武装勢力が潜んでおり、活動資金とするための鉱物資源を得るため、地元の人々、特に女性や子どもを暴行することが問題となっている。ムクウェゲ氏はコンゴ東部キヴ州の産婦人科医であり、この暴力によって心身を破壊された5万人の患者を治療した。

女性器や直腸などその周囲の内臓器官が、暴行で破壊され、瘻孔ができると、性機能の問題だけでなく排泄もコントロールできなくなり、それ以前に消化管からの感染を起こすと生命の危険なある。そのような状態の治療は、先進国の整った医療環境であっても並大抵のことではない。先進国よりは医療環境も良くないコンゴの病院で、日々手術を行い、そして女性たちの心身を救っているということに驚きを覚える。機能の再建どころか生命を救うことも、日々戦いだろうと想像した。しかも紛争は未だ終結していないし、彼自身の生命すら狙われ続けている。

人間の悪意と暴力の痕に日々接するということの壮絶さ、そしてそういう活動を女性でなく男性の医師が行っているということ、その人とはどのような人なのか、知りたいと思った。
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momologue

この1か月色々なことから離れてみて、いかに自分の頭が今までおかしかったか、という感じがしていて、ようやく正気に返ったような、そんな感じだ。この数年仕事は片手間にしかしていないのに、休養をちゃんとしていたかというとやっぱりそんなにできておらず、かといって仕事以外の大事なこともほとんどできていない。

医療って人を助けることではない。医師の役割は特にそうだなと思う。看護はまた違うかもしれない。でも基本的には、その場の限界と適切を見極めて、その場の最適な仕事をすることなのだ。誰かを慰めること、苦痛を和らげること、優しくすることはその範囲において織り交ぜるものであって、それが先に来てはいけない。

というより、愛は存在の深みにあるものであって、過保護な母のようにひけらかして他者を子ども扱いすることではない。

そもそも自分は人助けに向くオープンさとか、おおらかさとか、温かさとか、そういうものに欠けているように思う。むしろ公正さとか合理性とか最適化とか、そういうものへの指向性が強いのに、人助けとか役に立つとか優しくあることへの義務に乗っ取られてしまったのは、自分が女性に生まれて、この社会が女性に求めるものを、生き延びるために知らず知らず取り入れ優先しまったからである気がする。この社会でどう生きればいいのかとか、数十年生きてもさっぱりわからないんだけれども、N国とか見てるともうむしろなんでもありなのかなと思い、絶望するとともにほっとする。なんかもうなんでもありだから堂々と生きていいや、みたいな。どうせあとそんなに生きないし、のような。

公でも私でも、人の苦痛を和らげたい、救いたい、という強迫衝動みたいなものに無意識的に駆り立てられたのは、自分がずっと苦しかったからだと思った。助けなきゃ、ということでもなく、ただ見ていられない、という感じだったんだと思うが、他者が手を出しても通るべき過程が短縮されるわけじゃない。まして、嫌でたまらないのに義務で出す手は、握った方もその冷たさに心が冷えるだろう。

今自分の時間を異質な他者に侵されていないことが本当に幸せで、体が重くて思うにまかせなくても、木々の葉が光に反射してきらめく様子を見るだけで幸せである。ただいること、馬鹿話ができること、存在していることを幸せに感じる。食い荒らされていなければ、存在していることはそんなに痛みではないのだ。何もしていなくても、何も語らなくても、たくさんのことが為されている。

音楽より静寂、思想より沈黙、色彩や形態より余白、美より無にいたかっあのに、逆をやっていた。吐き出せる虚空が欲しかっただけだ。この場所は自分のものだから、たまった煙をここに吐き出している。

他者から成る私、他者の中の私

今は自分のこれまでの来し方を振り返る時期に入っていて、振り返ろうとしているわけでもないのに成り行き上、振り返らざるを得ない感じになっている。

自分について知ることは、常に痛みを伴う。良し悪しに関わらず、自分の内部の中にいかに多く、これまでいた社会の枠組みの価値観とか、周囲の人の信念などが入り込んでいることに痛切に気がつかされている。

自分自身としては適当に社会の最低限の規範に従いながら、その中でも自分自身が自分が善いと思う価値からなされている仕事や活動を探して、そういうものに関わりたいと思ってきた。

決して社会の偏見や先入観、無力感とか冷笑におもねってきたつもりはなかったのだけれど、それでもそれらは意識の中になかったあるいは持たないように努めてきたというだけで、無意識はほぼそういうものでできていて、そういうものに従って行動してしまっていた。
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演劇 精神病院つばき荘

精神病院を舞台にした演劇、「精神病院つばき荘」を観てきました。結果、号泣してしまった。やっぱりちょっと精神状態が繊細なのかもしれない。隣の人も少し泣いてたけど。

https://stage.corich.jp/stage/96538

以下ネタバレです。

精神科医院長が院内で発言力のある長期入院の患者のもとに、頼みごとがあると訪れる。最初は腰低く、懇願しながら、そして次第に恫喝し脅迫しながら、病院の存続に協力してほしい、貴方だってこの病院以外に出されたくないでしょう、もう家のようなものでしょう、と。その理由とはー。
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ひりひりする孤独の、光と熱と「中動態」 – 書評「ギリシャ語の時間」

ハン・ガン「ギリシャ語の時間」(晶文社、斎藤真理子訳)を読んだ。
ソウルを舞台に、遺伝性の病気で視力を失いつつある男と、離婚で子どもを失い声を失った女の運命が交錯する。カルチャーセンターで古典ギリシャ語を教える男は、思春期からドイツで沢山の痛みとともに生育し、数年前にひとり母国に帰国した。韓国語とドイツ語の間で割れてしまった彼の人生。職業として選んだのは、もはや人の間では話されることのない死語、古典ギリシャ語を教えることだった。女は職業と子どもと声を失い、”自分の意志で言語を取り戻したい”と願い、しかし話すことのないまま古典ギリシャ語の教室に無言で通い続ける。

ふたりはそれぞれの痛みを抱えているが、ひとりは外の光を受け取ることができなくなりつつあり、ひとりは自らの音を出すことができなくなっている。それは互いに理解することのない痛みである。しかし、発されないままの痛みはどこかで解放されることを求めていたのかもしれず、互いのことを知らず想像することもないまま、ふたりの運命は突然交錯する。

物語の中で、布石となるのが古典ギリシャ語の活用だったり、単語だったり、詩であったりするのだが、中でも中動態が出てくるくだりがある。
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