Our Lucky Dragon – ベン・シャーン展

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 1/29までのベン・シャーン展@神奈川県近代美術館・葉山に行ってきた。思いのほか混んでいて、10分弱並んで入れた。

 シャーンひとりの展覧会で600点の水彩、油彩、ドローイング、写真、グラフィックが並ぶ。これだけシャーンの作品をまとめて見たのは初めてだと思う。
 私の中ではプロテスト系社会派現代美術家という認識だったけれども、レコードジャケットやポスターも沢山手がけていることを初めて知った。凄いグラフィック力で、手書きのレタリングとか、不揃いなのに目を掴まれるような訴求力を感じる。
テンペラなどのカラーの作品も多かった。ベン・シャーンの青は沁みる。ウルトラマリンからティールというか、青緑のスペクトラムの中で、無意識の中まで沁みこむような深い青。濃いというよりも、深い。

 ベン・シャーンは1954年に起きた、ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸の被曝事件を描いた「ラッキー・ドラゴン」シリーズでも知られている。
 福島県立美術館はシャーンのコレクションを集めてきた。今回の展覧会は、米側から放射線量を理由に福島の巡回を外されるという憂き目に合っている。
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20120123ddm002070092000c.html

 ラッキー・ドラゴンの連作の部屋に入ったら、ある絵の前で、不意に涙が出てきてしまった。それは焼津漁港からの出航から被曝までを描いた、小さな線描の版画の連作のひとつだった。二人の男が口をあけて空を見上げている顔の線描。何が起きたのだろうと、何の気なしに空を見上げた二人の表情が、シンプルな線で描かれている。図録より。

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 相馬で聞いた話を思い出した。福島第一原発から3kmの双葉厚生病院の先生が、地震の翌日患者さんと外で待機していたところ、原発の方向からどっと風圧が来て、空からパラパラとかけらが降ってきた。それで大変なことが起きたんだ、と理解した、という話を思い出した。又聞きなので詳しい状況はわからない。が、何が起こったんだろうとふと見上げるとき、反対も賛成も考える暇もなく、もうことは起きている。そしてその身にことの次第を引き受けるのは、何の気なく初めに空を見上げた人で、それが核というものなのかと思う。

 小学生の頃、墨田区に住んでいて、埋め立て地の夢の島のプール教室に通っていた。この下はゴミなんだよと言われて、掘ったら野菜や紙くずとかが出てくるんだと思っていた。
 プールのそばには、第五福竜丸展示館があった。船体と水爆実験、被曝、その後の反核運動にまつわる色々な写真が展示されていたと思う。木造の船体は乾いて灰色にくすんでいて、そこに入ると気持ちが暗くなった。
 そこには、「原水爆で亡くなるのは私で最後にしてほしい」という言葉とともに久保山愛吉さんの写真があった。母は「これがクボヤマアイキチさんよ」と言った。写真の久保山さんの表情は、怒りにも苦しみにも満ちておらず、ただ静かにうつむいていた。この人は本当に犠牲者なのだろうか、よくわからなかった。
 太平洋戦争などの展示と違い、そこには人とひととの戦いも、憎しみや悲劇や別離や涙のエピソードはなく、ある日普通に港を出た船が、南の海で死の灰をかぶり、一人の漁師が死にました、という経過が淡々と展示されていた。それはなぜか、様々な憎悪や哀しみが飛び交う戦争のお話よりも、理不尽で心が冷えてくるように思えた。

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 当事者は、いつも、間で困惑していて、結局は自分の暮らしとはほとんど関係のない、反発する二つの力のどちらかに知らず知らずのうちに奉仕することになる。漁師の久保山さんは「久保山愛吉」というアイコンになり、久保山さんの妻も、原水爆反対のシンボルに祭り上げられていって困惑したとも聞く(記事参照)。私が「核反対」と単純に言えない理由は、ここにもある。まごつき、惑うこと。それが当事者性の本質なんじゃないかと思う。当事者と一緒に、間で逡巡していることが自分には合っている。外からそれを評した瞬間に、私たちは当事者が座る中央の席から遠く、右か左に振り分けられる。どの席にいても自分は無力なのは間違いないけれど、どうせなら自分の望む場所で、右や左にうろうろしながら、出口を探したい。というより、そうするしかない。是非を問うならば、言葉よりも行動でできたらと願う。原子力の恩恵を享受している私は、否応無しにアトムの子なのだし。

 第五福竜丸ーシャーンーアメリカー原子力ー日本ー福島と、目には見えない鎖の輪は、拡大すると「福」の文字になっているのだろうか。禍福はあざなえる縄のごとしというけれども、私たちの禍福は、ラッキー・ドラゴンを縄に変えてしまったのか。辰年の今年、竜がまた福をもたらす存在に戻るのか、縄でいつづけるのかは、私たちの意識と無意識と、行動にかかっているように思う。

 2回目にその絵をみたら、もう涙は出なかった。シャーンの描く、圧倒的な人間の力にただただ力づけられた。寒くて風邪をひいたが、行ってよかったと思う。トップの写真は、美術館のそばの一色海岸です。雲の間からもれいでる光がきれいでした。