言葉につまるとき – 「説明」と「表現」

どうも私の言葉は伝わらない。どうも私の言いたいことは理解されないらしい。無意識にそう感じるようになったのはいつだろうか。いつしか、人にわかる言葉で語らなければいけないというプレッシャーが強くなった。人にわかる言葉で語らなければいけないと思うと、かえって語れなくなった。言葉を発すること自体にブレーキがかかるようになってしまった。

小学生の頃は誰に見せるでもない文を書いていた。詩とか、散文とか、早熟でどこか偏ったものも多かった気がする。でも誰に見せるわけでもないから、誰かにわかる言葉にしようと努力する必要もなかった。ただ、内側からあふれてくるもやもやっとしたものを自分が美しいと思う言葉に置き換えて、書けばよかった。ワープロもない時代だから自分の字で、自分の手で書きまくった。

自分から見た世界は、世界にあふれている言葉で定義されているものでは到底納得ができなかったから、自分の言葉で切り直した。もちろんそれらは、世界にあふれている言葉から切りとって持ってきたものではあったのだが、それでも確実に自分の言葉であったのだ。外で咲いている花を切ってきて、自分の好きなように活けると自分の作品になる。そんな感じで。

その体験が今の自分を作った気がする。自分の言葉の羅列が、自分が納得できる「風景」になっていればその時はそれでよかった。
でも、いつからだろうか?人にわかる言葉や概念しか話してはいけない、と思うようになったのは。中学生くらいまでは、自分のファンタジーがまだ強固で、それをマンガに描いたりもしていたし、友人関係でも各自のファンタジーはわりと尊重されていて、その接点でわかる範囲で会話していた気がする。つまり、自分の考えていることや感じていることをあまり「説明」する必要はなかった。ただ「表現」すればよかったのだ。

でもたぶん高校くらいで受験がちらついてきて、そこから「説明」をしなくてはならなくなった。特に医学部に入ってからは、概念は専門用語の嵐となり、専門用語で話さなくては意味が通じなくなり、また何か論文を書く時も、「序→方法→結果→結語」というお作法にのっとって書かなくてはいけなくなった。考えていることを、なるべくフラットな意味の単語を並べて「説明」しなければならなくなったのである。文を書く、ということはそういうことになったのである。
でもフラットな単語の組み合わせはわかりやすくても、直方体のレゴブロックを積むようなもので、それでは決してあたたかな毛糸のマフラーや、ざらっとした曲線の籐の網かごは作れない。やはり素材として毛糸や籐を持ってこなければ、類似したものは作れても似て非なるものなのである。

診療の場でも同じようなことを感じていた。精神医療は「傾聴」がメインなので、自分が何かを感じてもなるべくそれは抑えるようにしていたら、いつしか言葉が出てこなくなってきてしまった。

患者さんにも病気と治療の説明をしなくてはいけないのだけど、そもそも病気とは知性による認識を越えた範囲の現象なので、説明がとても難しい。特に薬の説明が難しくて、「飲むと落ち着きます」とか言ってみるものの、それではたとえば安定剤の中の細かい違いはなかなか表現できない。たぶん細かい「感触の違い」は患者さんにもすべて知らせる必要はないのだろうけど、病気は同じでも関心も個性も違う患者さんに、どこまで、どのように伝えたらいいのかは毎回悩む。
たぶん、言葉における「説明」と「表現」を分けたほうがいいのだろうな、とは思う。シンプルでクリアな「説明」と、繊細な質感や複雑なストーリーを示す「表現」。「説明」は世界をシンプルな部分に分けるはたらき、「表現」は部分を統合してひとつのストーリーや世界観にするはたらき、ともいえるかもしれない。どちらがより優れているということはなくて、何かを人に向かって語る時には、どちらも欠かせないものだ。

私自身は「表現」のほうが好きで得意だと思っていて、「説明」はとても苦手だ。どうも自分の「説明」はいつも伝わらないことが多いように思ってしまう。そのあまりの苦手意識のために、「表現」のほう、というかそもそも言葉を発することも苦手になってきてしまった。

私にとって「説明すること」は「レゴでマフラーを作れ」と言われているような感じで、「それはマフラーじゃない」と思ってしまう。しかし、もし手元にレゴしかなければ、レゴでおおまかにつくってみせて「本当はもっと柔らかくて温かいものです」と説明すればいいだけなのかもしれない。また、もしかしたらレゴによるマフラー、というのも工夫次第でアリなのかもしれない。
「説明」は主に他者のために、そして「表現」は主に自分のためにするものであって、今はどちらを作動させるべきかその時々で柔軟に選択できたら一番いいのだろう。

どちらかだけがはたらいているということも、たぶんあまりないのだろう。「説明」するときに「表現」が入ってはいけないということはないわけで、説明が主だけどちょこっと詩的な表現がスパイスになったり、夢見るような表現の中に理解しやすい説明があったりと、いきいきと2つを移行できるような言葉づかいができたら、話し手も聞く人も楽しいだろうと思う。
どのような「説明」も、どのような「表現」も完全であることはない。ある人とある人が違う人間である以上、どんな言葉を使っても100%理解しあうということはないと、最近思うようになった。

けれど、やっぱり理解したいし、理解されたいという願望を捨てられないのが人でもある。完全ではない言葉であっても、語りかけることで、次への可能性が生じる。言葉の意味のギャップにある誤解から、もっと大きな発展が生まれたりすることもある。と思い、勇気をふるってこの文章を書いている。

今はこの「不完全さゆえの可能性」に向かっておそれずにからだとこころを開きつつ、いつか少しでも理解しあうことをめざして、「説明」と「表現」の両方のトレーニングを続けたいと思う。気をとりなおして。

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