Memento mori (2) – 映画「二重被爆」

「二重被爆〜語り部・山口彊の遺言」を観た。

自宅のある長崎から出張先していた広島で原爆に遭い、爆風に吹き飛ばされて火傷を負った身体で、命からがら戻った長崎でまた2度目の被爆をした山口彊さんのドキュメンタリー。

90歳まで被爆体験を語らずに来た山口さん。2005年に、次男の捷利さんを癌で亡くしたのを機に、語り部としての活動を行うことを決意した。語り部として活動した90歳から93歳までの記録。2006年の先行するドキュメンタリー映画「二重被爆」が元になっている。

山口さんの90歳からの活動がすごい。90歳で初めてパスポートをとり、国連本部とコロンビア大学で映画の上映会を行い、スピーチをする。「言葉や肌の色 はちがっても、話せばわかるはず」と以後、学校や様々な場で語り続ける。アメリカから来た高校生たちには、「英語で話したい」とコロンビア大学の大学院生 にチェックしてもらいながら練習して、スピーチの半分を英語で行った。もともと英語は得意で戦後一時期通訳もされていたとはいえ、その情熱に舌を巻く。
浦上天主堂の被爆のマリア像を、新聞記事をみて初めて絵を描いたというが、その絵が力強くて、80代の後半で初めて描いた人の絵とは思えない。

おそらく戦後も原爆症や、社会的にも様々な苦労をされてきたと思うけれども、山口さんが語るのはあくまで原爆投下後の風景である。それがいかに非人間的で あるか、広島から避難するときに見た川を流れる多数の遺体を「人間筏」という言葉で短歌の中に表現する。スピーチのたびに「皆さんの力を貸してください」 「私のいのちをバトンとして渡したい」と嗚咽する。

そんな山口さんも93歳で胃がんに罹患し、入院した。その2009年末にはジェームズ・キャメロン監督が長崎の病院で面会する。敬意をこめた言葉をためら いがちにかけるキャメロン氏に、山口さんがやせ細ったからだから絞り出した「I have done my duty…」という言葉が胸を打つ。面会から10日後に、山口さんは亡くなった。

もちろんこの映画は被爆の悲劇の記録でもあるが、人生の最期の最期に凝縮して花開いたひとりの人の情熱と才能のストーリーとも観ることができると思った。 最愛の息子さんの死をきっかけに、ご自身の死の前に、語るべきことを語ろうと決意した覚悟が、彼を多くの人に導いた。90歳まで待ったからこそ、できたこ となのかもしれない。

「肌の色が違っても、言葉が違っても、話し合えばわかります。One for All, All for Oneです」
信念を貫いた人の言葉は、人々の心を力強く動かす。One for All, All for One.  66回目の終戦記念日に。

 

 

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