投稿者「Mahiru」のアーカイブ

monologue

この1か月色々なことから離れてみて、いかに自分の頭が今までおかしかったか、という感じがしていて、ようやく正気に返ったような、そんな感じだ。この数年仕事は片手間にしかしていないのに、休養をちゃんとしていたかというとやっぱりそんなにできておらず、かといって仕事以外の大事なこともほとんどできていない。

医療って人を助けることではない。医師の役割は特にそうだなと思う。看護はまた違うかもしれない。でも基本的には、その場の限界と適切を見極めて、その場の最適な仕事をすることなのだ。誰かを慰めること、苦痛を和らげること、優しくすることはその範囲において織り交ぜるものであって、それが先に来てはいけない。

というより、愛は存在の深みにあるものであって、過保護な母のようにひけらかして他者を子ども扱いすることではない。

そもそも自分は人助けに向くオープンさとか、おおらかさとか、温かさとか、そういうものに欠けているように思う。むしろ公正さとか合理性とか最適化とか、そういうものへの指向性が強いのに、人助けとか役に立つとか優しくあることへの義務に乗っ取られてしまったのは、自分が女性に生まれて、この社会が女性に求めるものを、生き延びるために知らず知らず取り入れ優先しまったからである気がする。この社会でどう生きればいいのかとか、数十年生きてもさっぱりわからないんだけれども、N国とか見てるともうむしろなんでもありなのかなと思い、絶望するとともにほっとする。なんかもうなんでもありだから堂々と生きていいや、みたいな。どうせあとそんなに生きないし、のような。
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他者から成る私、他者の中の私

今は自分のこれまでの来し方を振り返る時期に入っていて、振り返ろうとしているわけでもないのに成り行き上、振り返らざるを得ない感じになっている。

自分について知ることは、常に痛みを伴う。良し悪しに関わらず、自分の内部の中にいかに多く、これまでいた社会の枠組みの価値観とか、周囲の人の信念などが入り込んでいることに痛切に気がつかされている。

自分自身としては適当に社会の最低限の規範に従いながら、その中でも自分自身が自分が善いと思う価値からなされている仕事や活動を探して、そういうものに関わりたいと思ってきた。

決して社会の偏見や先入観、無力感とか冷笑におもねってきたつもりはなかったのだけれど、それでもそれらは意識の中になかったあるいは持たないように努めてきたというだけで、無意識はほぼそういうものでできていて、そういうものに従って行動してしまっていた。
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演劇 精神病院つばき荘

精神病院を舞台にした演劇、「精神病院つばき荘」を観てきました。結果、号泣してしまった。やっぱりちょっと精神状態が繊細なのかもしれない。隣の人も少し泣いてたけど。

https://stage.corich.jp/stage/96538

以下ネタバレです。

精神科医院長が院内で発言力のある長期入院の患者のもとに、頼みごとがあると訪れる。最初は腰低く、懇願しながら、そして次第に恫喝し脅迫しながら、病院の存続に協力してほしい、貴方だってこの病院以外に出されたくないでしょう、もう家のようなものでしょう、と。その理由とはー。
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ひりひりする孤独の、光と熱と「中動態」 – 書評「ギリシャ語の時間」

ハン・ガン「ギリシャ語の時間」(晶文社、斎藤真理子訳)を読んだ。
ソウルを舞台に、遺伝性の病気で視力を失いつつある男と、離婚で子どもを失い声を失った女の運命が交錯する。カルチャーセンターで古典ギリシャ語を教える男は、思春期からドイツで沢山の痛みとともに生育し、数年前にひとり母国に帰国した。韓国語とドイツ語の間で割れてしまった彼の人生。職業として選んだのは、もはや人の間では話されることのない死語、古典ギリシャ語を教えることだった。女は職業と子どもと声を失い、”自分の意志で言語を取り戻したい”と願い、しかし話すことのないまま古典ギリシャ語の教室に無言で通い続ける。

ふたりはそれぞれの痛みを抱えているが、ひとりは外の光を受け取ることができなくなりつつあり、ひとりは自らの音を出すことができなくなっている。それは互いに理解することのない痛みである。しかし、発されないままの痛みはどこかで解放されることを求めていたのかもしれず、互いのことを知らず想像することもないまま、ふたりの運命は突然交錯する。

物語の中で、布石となるのが古典ギリシャ語の活用だったり、単語だったり、詩であったりするのだが、中でも中動態が出てくるくだりがある。
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現代の悪魔祓い

1ヶ月ほど前になるが、「悪魔祓い、聖なる儀式」のドキュメンタリー映画を観た。イタリアのシチリア・パレルモのとある教会。カタルド神父はエクソシストの資格を持つ神父であり、火曜日の悪魔祓いの日にはシチリア内外から希望する人が集まる。その様子を一切のナレーションや音楽もなく、淡々と記録した記録映画である。
実はその前に韓国のホラー映画、「哭声(コクソン)」を観て、これも悪魔祓いを巡る話、ひいては「誰を、何を、どうして、どのように信じるのか?」というテーマの話だった。この映画に出てくる韓国の悪魔祓いの儀式は、祈祷師が色とりどりの衣装を着て、屋外で火の周りで動物の死骸を吊し太鼓を打ち鳴らし叫び回る大変派手なものだった。対決する國村隼演じる祈祷シーンは、密室のろうそくの火の中で白装束で唸る、というものでそれも日本ではありがちな描写ながら國村の形相が抜群に恐ろしかったのだが、日韓の悪魔祓い儀式の姿勢の違いというか、こもった怨念の日本、アッパーなフェス系韓国という対比がおもしろかった。映画好きな韓国の友人に聞いたところ、韓国ではかなりこの映画は社会現象になったらしい。そして韓国でも悪魔祓いの需要は高くて、自分の友人は大学で悪魔祓いを教えているから紹介してあげようか?コクソンに出てきたやつだよ、と言われ、あれは本当にやっている儀式なのかととても驚いた。大変に興味を引かれたものの、火中にわざわざ飛び込むのは自分が憑かれそうな気がしたので遠慮した。
そんなこともあり悪魔祓いに関心を持ったのもあり、また去年パレルモに訪れてとても美しく親しみのある街で、それでこの映画も観ようと思っていたのだった。
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