To be original, or not ?

少し前のことになるが、ロバート・キャンベル氏と多和田葉子氏のとある学会での対談を、たまたまインターネットで観た。普段あまり聴くことのない文学的な対談で、ドイツ在住でドイツ語でも著作のある多和田氏の特異な言語感覚もあってとても興味深かったのだが、その中でcultural appropriateという概念について語られていた。
私はその概念について初めて知ったのだが、cultural appropriationとは、その文化に属さない者がある文化の因子を取り入れることで、いわば文化の盗用のことらしい。キャンベル氏は和服が好きでよく着るようなのだが(私も上野か本郷で和服を着たキャンベル氏を見かけたことがある)、いわゆる欧米人の前では、それはおかしい、と思われることがあるとのことだった。日本人からは言われないとのことである。なので、どうも、cultural appropriationというのはその文化の人から出た盗用の不服申し立てというよりは、その文化に属さない人々の側から出る違和感のようなものなのだろうか。appropriateという単語、長らく適切なという意味しか知らなかったのだが、今回初めて「私物化する」という意味もあるのを知った。
文化の尊重というのはよく考えると結構難しい。たとえば地理的に他所と遠く隔てられた場所に住み、あまり他に開かれていない人たちの文化は比較的保存されやすいが、現在の世界のようにさまざまな場所へのアクセスが発達し、他所の文化に関心を持つ人も増えていると、どうしてもさまざまな相互作用が起こるし、そもそもそのような相互作用によって歴史自体が進んできている。文明や文化は、常に他のものとの相互作用を受けており、そのために興隆したり、衰退したりする。
文化は何もしなければ基本的に混血していく方向に進んでいくのだろう。印象派のジャポニズムもあるし、エミネムは”アフロアメリカン”の文化であるラップの横取りだ、という意見は的外れであると思うし、近田春夫とビブラストーンは個人的に好きだ。だいぶ前だけど。
一方で本当に優れたものが残るかというとそうでもなく、たとえばいったんは確立された高い技術が、その民族が滅びて長いこと失われたりする。エトルリアの繊細な金細工などは、長いことその技術については謎で、その技術が復刻されたのは20世紀に入ってかららしい。2つの文化に圧倒的な「武力」の差があって、繊細な文化が強くてそれほど繊細でないものに飲み込まれた場合は、融合されてより高まるのでもなく、ただ消え去る場合も多い。異文化の出会いは避けられないが、成り行きに任せるのか、保護するべきなのか、強い方の文化を押しつけるのか、より高度なほうを取り入れるのかは、どれがいいとも言えず、まあ予想もつかない。

対談に戻るが、多和田氏はそれに答えて、「自分はカフェなどで人の会話を聴いていて、それを自分の作品に取り入れることがある。これまでの作品でも、そういう会話からとっていてほぼ実話のような部分もある。そのことをオーストリアの講演で言ったところ、『人の会話を聴くのは、ほぼ泥棒のようなものではないか』という反発をした人がいて、そういう反応もあるのかと思った」というようなことを言っていた。
そうすると「オリジナルとは何か」という問いに入ってくる。そもそも完全なオリジナルなものとは存在し得るのだろうか。創作にしろ、スタイルにしろ、ほとんどのことはやりつくされている。個人的には、カフェの会話からヒントを取ることまで禁じ手としてしまうとやりすぎのように思うが、逆にいえば、私たちは普段どのようなものをオリジナルである、と感じているのだろうとふと疑問に思った。これについてはまだ答えがない。

このブログではいくつか自分の過去の臨床からの実体験を描写した文章があるが、出てくる人はすべて情報を変えてある。性別や年代、職業は変えてあるか、書いていない。私としては、自分もそうであったものとして、苦しんでいる当事者やその人を支える周囲の人、また身近にそういう人はいないが精神の問題に興味のある人たちに、医療のがちがちなテクニカルタームではない言葉で、何か力づけや理解につながるようなことを示したいという思いがあった。ディテールが変わっても、実話の経過の中にはとても大きな力があるので、そういう力のようなものを伝えたかったし、実際共感と理解に満ちた反応で読んでくださった方が多かった。
が、なんとなくこのcultural appropriationを巡る論議を聴いて、今回思うところがあり、いくつかのエントリを非公開にした。というのは、その物語を、それが帰属するその人に帰したほうがいい、という気がしたのである。他者はどれだけ理解や共感をくれても、基本的に通り過ぎていくものである。思うところを描写するのは難しいが、今後しばらくは誰かや何かのためというより、自分に書くべきこととして降りてくるもの、自分の中から出てくる言葉や概念としてあらわれてくるものを書こうと思っている。特に、社会正義のため、みたいな欲は意識的に落としたい。その上で、降りてくる衝動がどのようなものになるとしても、真にオリジナルなものであるとまずはいったん信じてみようと思う。