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熱波

陽炎の立ち上るアスファルト、と言いたいところだが、陽炎というよりすべてが熱源のなかだ。上から下までまんべんなく暑く、熱い。空から地面まで、のっぺりと一様な熱が覆い尽くす。東京が発熱したとしか思えない。

誰も自分を愛してくれないとしたら、誰がわたしを愛するのだろう。これを撞着語というのだろうか。そもそも愛される必要があるのだろうか。自分にも他人にも。そもそもわたしとは存在するのだろうか。流れてゆく思考や行動が、わたしのかたちをした場の中で、陽炎のように渦を巻いたり、対流したり、滞留したりして、ひとときの溜まりをつくっているだけで、わたしなどほんとうはどこにもないのだろう。主張する主体、かけがえのない、境界ある個、という近代的自我の概念は集団的な幻想だとおもう。ただただ飛んできて、落ちて、渦を巻いて、また飛びゆく、渡り鳥の群れのような、そしてたまたま取り残されて留鳥や迷鳥となった鳥、自我はそんなようなもので、波打ち際にひとときの間、残った砂紋のような、そんなはかなさだ。あらゆるものが、地震や台風や大雨や津波なんかで崩れ流され、消え去っていく。ここはそんな国土であって、そこに住む人だけが確固として消えないものであるはずがなく。

集まっては散る蜉蝣、神の目から見たならそれもまたなにかの数式であらわせるのだろう。短い時間であっても、邂逅し、交尾し、消え失せ、また次へと継承する。

というようなことを考えて綴ってしまうくらいには暑い。ここは暑すぎる。

 

 

底抜け世界

世界の底が抜けたような
そうではなく世界の天井が抜けたような
というわけでもなく両方が抜けたような
とはいえもともとなかったような

世界の裏表をひとひねり
つなぎあわせて
メビウスの輪を永遠に歩きつづける

立っているかぎり、きみは永遠に上で、表だ
まだ見ぬ裏面を、思いながら、歩いていけば表面しかなく
表は永遠に裏にならず
裏は永遠に表に浮上せず
沈んだまま、やるせなく、沈鬱に
われらの表を駆動しつづける

そんな平面に居住するのは、いかがですか?
快適ですか?
しあわせですか?

ただただ、存在しつづける存在
いかがですか?