依存するからだ、依存できないこころ

  
 「人はなぜ依存症になるのかー自己治療としてのアディクション」(星和書店)を読んだ。アメリカの薬物依存症治療のエキスパートであるカンツィアンらの原著を、日本における第一人者である松本俊彦先生が翻訳したものである。
 この本では、「薬物依存症は感情的苦痛を和らげるための自己治療の試みである」という「自己治療仮説」について述べられている。
 私が興味をもって読んだのは、彼らは快楽追求のためというよりはむしろ、感情的苦痛を和らげるために、薬物を「選択」して使用している、ということであった。たとえば攻撃性と怒りの感情が激しい人はヘロインなどのオピエートを好んで使用する。ひりひりするような怒りを何とかコントロールして、人間関係を丸く収めようとする。アルコールを好む人は、不安が強く、対人緊張を和らげ快活な自分を演出するために飲酒する。もともとうつ病や不安障害、ADHDなどの精神障害が併存している人も、一定の割合で存在する。ここには、「精神的問題への対処としての、死にものぐるいの自助努力」としての薬物依存症の像がみえてくる。

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 もうだいぶ前だけれども、過去に少し若年者のアルコール依存症のプログラムにかかわっていた。自分の印象としても、「自己治療仮説」は合致する。中年期以降のアルコール依存症が社会的に一定の地位を築けた人が比較的多いのに比べ、若年者は幼少時に親に虐待を受けていたり、家庭的・社会的は恵まれない環境の人が多かった。発達障害の傾向がある人たちも結構いた。彼らの特徴は、人間関係に恵まれていないことであり、家庭に問題があるだけでなく、学校でも不適応であり、周囲に信頼して相談できる大人がいない、ということであった。ある若い男性は、父親の暴力から逃れるために、小学生のときに幼い弟をつれて窓から夜に逃げ出した、と語った。そのために部屋に靴をいつも隠しておいたという。彼らは自分だけで何とかするしかない状況に、人生の早期から置かれていた。アルコールに依存することは、ある意味、何とかひとりでも生き延びるための努力であったともいえるだろう。
 その人たちが一様に言うのは、「もう飲んでも楽しくはないんです。でも飲んでしまう」ということだった。このことは、薬物の使用がすでに快楽ではないことを示している。叱りつけても彼らに感情的な苦痛をさらに与えるだけであり、治療の上で効果的ではない。むしろ、「薬物はあなたに何をもたらしてくれましたか?」と問うこと、それが求められると、この本にはある。

 薬物依存はアルコールや違法薬物だけでなく、医師の処方する向精神薬にも依存性の高いものがある。むしろこちらのほうが、ある意味複雑な様相を呈している。
 患者さんがある苦痛を持って相談にやってくる。たとえば眠れないとする。医師は不眠症と診断し、睡眠薬を処方する。患者さんは眠れるようになって楽になったが、ある日飲まないで寝てみたら、あまり眠れない。よくある経過だ。では睡眠薬がないと眠れない人は、依存症なのだろうか?
 依存症の診断基準の主たるものは、離脱症状と耐性の形成である。身体的には、やめると眠れないのだから、広い意味での離脱症状はあるといえる。耐性は、同じ効果を得るのにどんどん高用量が必要になっていくことだから、一定量の薬で眠れるならば耐性の形成まではまだされていない。
 「ないと眠れない」のは裏返せば、「飲めば眠れる」のであり、それならば当面仕方ないかなと思う。飲めば眠れるならば、効果があるのであり、むやみに量が増えることはない。眠れずに苦しむ夜が板についてしまうよりは、飲んで眠れるほうがはるかに良く、良質な睡眠が安定してとれるようになると、いざ薬をやめるときも比較的スムーズである。そう伝えると、患者さんたちはほっとした表情で、「安心しました」と言う。
 よくないのは「飲んでも眠れないので、量が増えていく」パターンである。睡眠薬は、多くても2剤くらいで効くときは効くのであり、それで効かないときに増量したらしただけ効果があったという経験が私にはない。こういう場合、原因は不安や緊張や疲労の蓄積か、生活リズムの問題であることが多く、薬だけでは解決できない。「飲んでいても眠れないけど、やめるのは不安なんです」という場合は、良くない依存が生じている。
 患者さんが自己判断で増やしてしまうこともあるが、それよりも医師がどんどん増量してしまうケースのほうがずっと多いと思われる。これは医療保険制度の構造も含めた問題である。

 そもそも依存とはどういうことなのか。それは悪いことなのか。
「大辞泉」で「依存」を引くと、「ほかに頼って存在、または生活すること」とある。
 あらためて書くまでもなく、人はひとりで生きているのではない。無力な赤子として生まれ、親による保護と養育を必要としながら育つ。ある程度大きくなれば、社会の中で生きていくために、教育が必要になる。その後社会に出て働く。働くことは、ほかの人に役に立つことのために、自分の力を提供することである。そうして初めて、お金を得て、それをまた自分や家族のために役立てていくことになる。つまり、皆が力を出し合い、助け合って、この社会は成り立っている。そのためには、ひとりひとりが、自分の力を発揮できる状態まで、成長していなくてはならない。そして、健全な成長をとげるためには、依存せざるを得ないのである。
 依存自体は、成長し自立できるようになるまでに必要なプロセスである。

 では、健康な依存と病的な依存の違いは何か。
 睡眠薬の例で言うと、「飲めば眠れる」のならば、私は健康な依存であると思う。それはある意味、「自分の力を引き出す」ための杖であり、一時的な助けであるという前提を含んでいる。
 しかし、「効果がない薬を増やす」ということは病的な依存であると思う。それは患者さんの無力感を増長するし、自立のための助けになっていない。治療者は、自分が行っている治療が、患者さんが自由になるための手助けになっているかどうかを、常に振り返るべきである。
依存症の人はそもそも依存的なのか?と私はしばしば考える。むしろ依存症の人たちは冒頭に書いたように、きわめて自己解決的な人が多い。むしろ、人に頼れないから、モノに頼る。
 たとえて言えば、足を骨折したが、松葉杖を貸してくれる人がいない。あるいは松葉杖というものの存在すら知らない。でも仕事にいかなければならないので、仕方なく傘を杖代わりにして歩く。変な歩き方をしたために骨が変形したので、傘の数を増やして歩く。体にますます無理がかかり、さらに骨が変形し、ついには歩けなくなる。たとえはあまり上手くないが、依存症というのはそういうような構造だ。
 すべきだったことは、傘で何とかがんばるのではなく、もっと助けを求めることだった。過去にできなかったのは仕方がない。でも今後は助けを求めることができるし、していい。これからは一人で頑張らず、適切なタイミングで適切な人に依存すること、それが必要になってくる。
 依存が起こるのは、部分的にはその手段が有効なときである。上の例で言うと、傘は少しは役に立つ。が、それは、ベストな手段ではない。少しだけ役立つが、本当に必要ではないものに、人は病的に依存する。

 医療をやっていて時々疑問を感じるのは、たとえば深刻な虐待を受けた人に本当に必要だったものは健康な愛情であり、それは病院では与えることはできない。現在の日本の精神科外来では心理療法に十分な時間をとれないため、外来でできるアプローチは時間的にも限られてしまう。以前はそのことに大きなフラストレーションを感じていた。
 しかし、もともと人生は私たちがほんとうに必要としているものを与えてくれず、近似的なものだけをくれるものだ。私たちはそのことに不満を持ち、渇望し、時に病む。しかしその中でも、治療者は絶望しないこと、今できることに目を向け続けること、そしてそれが相談者の真の自由につながるようなものであるよういつも気をつけること。そういう姿勢でいること自体が希望を与えるのかもしれないと思うようになった。今はただ、今ある枠組みの中で、できることをして、そして、できないこと、無理なことはしない。

 依存症のある人には、ほんとうに自分自身を愛し、ケアすることが必要だと思う。治療者が無理をすると、無理をして自己犠牲をするという姿勢を伝えることになってしまうこともある。それでは、自己犠牲してなけなしのエネルギーを他に差し出して、代わりに何かや誰かに依存する、という行動が変えられなくなる。無理なことは無理と伝え、快適でいられる関係性の中でかかわりあう。それが健康な関係性であり、また健康な自己愛なのだろうと思う。自分をきちんと愛していれば、必要なヘルプを求めることができ、健康な人が助けに来てくれる。YESとNOとヘルプを健全に出すこと、それは言葉では簡単で、実は非常に難しい。でもたぶん、スポーツや楽器のように練習すればするだけ上手くなれると思う。

※2013年に「こころの科学」に載せていただいた文章を改編。日本ほど睡眠薬を長期に出すところは少ないらしいので、今読むと、もう少し睡眠薬の部分は一時的使用にとどめる努力をするべきなのかなとも思う。でも他の部分は基本同じように考えているなあと思いました。
写真の絵はフランスの古い町、グラースのノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂にある、フラゴナール「洗足」です。

2 thoughts on “依存するからだ、依存できないこころ

  1. 後藤慶子

    友人の「いいね」から、この記事に行きつきました。私はことばの相談をしていますが、どこまでも求めてくる人に会うことがあります。自分の境界線を越えず、健康な関係生を維持する、という一番最後のパラグラフが心に迫りました。ありがとうございます。

  2. Mahiru 投稿作成者

    後藤さん、コメントありがとうございます。私自身無理をしがちでしたが、振り返るとその分功を奏したというより、むしろ害のほうが大きかった反省があります。関係性はどちらか一方だけに責任があることはありません。でも気づいたほうが先に気をつける必要はある気がします。

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