荒れた世界の中で、庭に手を入れつづけること

ようやく自分のブログに戻ってきて、家に帰ってきたようにほっとしている。ここ5-6年、特に震災以降、TwitterやFacebook、tumblr、noteなどのSNSに書いてきたけれども、SNSはどう見られているか、が気になってしまいあまり落ち着いて自分の思考や感情に集中できない。もともとあまりソーシャルではない人間なので、正しいとか役に立つ情報発信というよりは、自分の思っていることを整理するために文を書くほうだ。
今後はなるべく自分のブログに色々書こうと思っている。あまりまとまった文章にこだわらず、短い文、軽い雑感でも、書いていくつもりだ。

年始に色々ウェブ関係の整理、SNSの見直しや移転したまま放置していたブログの削除をしてみたが、ほんとうにフォーマットによって人の行動というのは制約を受けるものだなと思った。

facebookはちょっと重い。人は誰かの意見を読んだときに心の中に何らかの反応が起こるものだが、いいね!はそういうもの、特に共感を簡便に可視化・定量化する装置なのだろうと思う。それを評価や点数のように受け取る人もいると思う。多数の人に向けて発信したい情報が明確にある人はいいと思うが、自分の場合は自分の考えに引きこもって集中したいほうなので、人の反応によってそれが賞賛であれ批判であれ、むしろ疲れてしまうことも多々ある。個々の人たちの善意や情熱の熱量が、束になりすぎると、場のうねりみたいなものに持っていかれてどこかmassになっていくというか、たぶんfacebook自体がそういうつくりなんだと思う。また、関係が濃い人と薄い人が混在しているので、「友達」といってもどのような反応が飛んでくるかわからない、というのがある。ただでさえ投影と主張と共感の場の装置の運営に気を使うのに、そこにFacebook自体の広告の意図が入ってきたりもするので何だかわけがわからなくなる。

Twitterはその点、基本独り言の装置だと思うので、その点軽いが、なんだか流れていく雑多に切り取られた情報やさまざまな吐露を見ていると、ひとの存在が断片化されていくような感じもする。あと最近広告が多いのでそれも離れたい理由。思案している。

tumblrはinstagramが出てくるまでは写真やちょっと創作的な短い文章を書いたりと使っていて、テーマもデザインがシンプルで、表現の場に徹した素っ気ないプラットフォームであるようなところが好きだったが、結局あまり要らないような気がしてきてこれまでのアカウントは削除した。noteの記事はブログに移動しアカウントを削除した。instagramは写真を撮りたいので置いてある。

しかし多くのSNSのビジネスモデルを見ていると、基本的に人の思いが(ポジティブにしろネガティブにしろ)集まる場所はお金になるのだなあと思う。SNSにいすぎると、なんだか自分の大事なこころの一部が消費され換金されて知らないところに流れていくような気分にもなってくる。被害的にすぎるかもしれないが。

翻って久々に自分のブログを眺めてみたが、まるで耕作放棄地のように寂しい雰囲気が漂っていて、たくさん書いたと思った文章も60件余りしかなく、なんだか他のSNSをつまみ食いしている間に、ここに手をかけるべきだったと思った。自分が戻ってくることを信じて待っていた庭のようである。あらためて、この庭は自分が手を入れなければ荒れ果てるのだ。

他者の提供してくれるフォーマットを使うほうが、情報の管理は楽で簡単で安全だ。今回、久々なのでレンタルサーバの設定を間違ってアクセスできなくなってしまったり、ちょっとしたwordpressの設定ができなくていらいらしたりとあったが、そのたび親切な人たちがアップしてくれている情報に助けられた。そういう意味で、再び世界を信頼することができたような気がする。

現在ほど言語化された情報が飛び交う時代はこれまでなかったが、当然ながら心や精神活動のすべてが言語化できるわけではない。私自身は、むしろ言葉からこぼれ落ちるものに関心がある。というか人を真に喜ばせたり苦しませたり動かすものは、言葉による構造にはまだ乗らない、もやっとした思考や感情や意志の萌芽だろうし、それはむしろ芸術的な媒介でそっと触れていたい。とはいえ、書くことはまだ必要なので、わたしはしばらくここで書こうと思う。必要がなくなったなら、もう書かなくなると思うが。
写真は大好きなデレク・ジャーマンの庭の写真集。寂れた漁村の、原発の見える荒野の別荘で、晩年まで庭を作り続けた。

世界がどんなに荒れていても、自分の庭には手を入れ続けること。そんなことを考える。

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