薄暮のロードマップ― 書評+α「患者から早く死なせてほしいと言われたらどうしますか?」

 人は誰でも死ぬ。それはいわば卒業のようなものであり、学校に永遠にいられないのと同じく、果てしなく続くように思える日常生活の先に、必ず死というプロセスがある。健康なとき、私たちは普段の生活の中でそれを意識することはほとんどない。しかし治癒が難しい病や加齢などで、必ずそのときは来るのであり、しかもその人にとって必ず初めてであり、そして1度限りの体験である。周囲の家族も含めて、多くの場合不安となり、ただただ困惑することが、ある意味自然な反応であると思う。
 著者は病院でのホスピス勤務を経て現在在宅診療を専門に行っている緩和ケア医であり、数多い看取りを行ってきた、いわば「終末のエキスパート」である。医師であれば一般の生活者よりは、多くの死に立ち会う。多くの科では未だそれは「敗北」、もしくは仕方なく受け入れるものであるが、著者は、いずれやってくる生命の自然な過程としてその時間に寄り添う。

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 本書では、終末期ケアについての通年講義という形式をとり、1学期は「痛みの治療と症状緩和」、2学期は「鎮静と看取りの前」、3学期は緩和ケアを巡る「コミュニケーション」という構成で、死に際してのケアについて語られていく。

 死に近づくと起こること。身体的には、人は疼痛を覚え、食べられなくなり、呼吸が苦しくなり、その後にせん妄など意識障害が起きてくる。医師にできることは、がん性疼痛などの痛みや身体症状の苦痛があれば、まず可能な限り緩和することである。本書の1学期では、疼痛ケアが専門でない医者にも使えるファーストレスキューや、オピオイドと非オピオイドの使い分けについて丁寧に記述されている。その他の症状についても、あえて「悩みながら」の医療的な対応の選択の考え方と限界がともに示されている。

 また、死は精神的、社会的な過程でもあり、患者ひとりのものではない。本書の2学期では、いよいよ看取りである(予後が1週間前後と思われる時期とのことである)時期の患者、家族、治療者の身体的・心理的過程とそのケアについて描かれる。特に終末期の鎮静を巡っては、鎮静の前に苦痛は可能な限り取り去ることと、せん妄への対応が重要であること、苦しみについては緩和する方法があり、それをしっかり行うと約束することを伝えた上、最後の数日に行うものである、と著者は述べる。

 本書の章立てでは、あえて「コミュニケーション」というテーマを最後の3学期に持ってきている。緩和ケアとは何か、がんの告知と化学療法の中止、患者の自殺、余命告知、家族のケアといった、生命的な死の過程にともなう心理社会的な反応において、エビデンスと著者の経験をふまえた思考が語られる。「緩和ケアとは場にある」― 生活に関するおしゃべりから生まれる、とあくまで著者のまなざしは優しい。

 著者のブログのこの記事が好きで時々読み返している。
「人が死ぬとき」
http://drpolan.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-01a8.html
「人の生から死への意識の変化というのは、白昼の光に満ちた力のある状態から、急に真っ暗な夜の闇に至るのではない。その間の薄暗い夕暮れを経ながら、時には夕暮れの光が強まったり弱まったりしながら、死へ向かう時間というものを過ごすのです。」

 私たちが必ず経験する生命のプロセスである死を、案外私たちは知らない。現代のような2進法のテクノロジーが支配する世界では、生から死への移行は、まるでぱちんとスイッチをオフするかのように行われるようなイメージがあるかもしれない。しかし、生も死も限りなくグレーのグラデーションであり、身体的/精神的/社会的な死への旅立ちには、夕暮れの夢のような移行期間がある。この期間が本来持つ豊かさに対して、伝統的な社会で共有されていた弔いの知恵は失われ、医療は鈍感過ぎるようになった。初七日、四十九日などは生命としてはもう終わっているが、社会的に、また周囲の人々の精神において、喪失を通過し受容していく期間であり、本来死の前からの移行としてひとつづきに過ごされるべき時間なのだろうと思う。

 再びこちらから引用。
「そして、死はある瞬間に訪れるのではなく、意識のグラデーションを緩やかに移行していく中で訪れます。この夕暮れの状態を、終末期せん妄と呼ぶときもありますが、他によい呼び方が医療の世界にないだけです。この夕暮れの状態の間、人は夢と現実の間を行ったり来たりしながら過ごすのです。」
 せん妄、というのは本人、家族にとってトラウマティックな経験だけれども、精神科医として関わると、あの不穏がまさにそれ自身に生命のある夢だということがわかる。身体が危機的状態になったときに、夕暮れのこうもりのように、脳のどこかに隠れていた断片化されたイメージの切れ端が勝手に飛び始める。それは健康なときには決して現れてこない、その人の世界の、暗い記憶の切れ端なのである。だから、せん妄をただの意識障害として扱わないほうがいいと私は思っている。未消化な記憶の断片に襲われている恐怖の淵にあるその人に、医療者はルーティンとして薬を処方するだけでなく、その恐怖に少しだけでも、寄り添っていてほしい。理解してくれる他者がそばにいることで、せん妄からの回復後にその人が覚えていないとしても、まったく違う体験になると思う。

 あとがきの「終業式」において、「病気は患者のもの」と著者は語る。患者および家族が、「じっくりと苦悩できる環境をさりげなく整えること」が医療者の役割であり、医療者自身が、彼らの苦悩を解決してはならない、と。
 死は患者からさまざまな生命への欲が消えていく過程でもあるが、同時に治療者の、経過をコントロールしなければならないという「欲」を手放す過程でもある、と筆者は受け取った。これは、患者と治療者、両方の治癒の過程ではないかとも思う。

 死への立ち会いに正解はない。治療者は無力なようで、患者の人生の終末への道なき道に立ち会うこと自体において、癒しているのであろう。治療者にとっても道のない稜線を歩くにあたって、少し先を行く著者の苦悩の過程は、特に若い治療者に勇気を与えるだろうと思う。それは誰も行ったことのない道だけれども、地図はある。少しだけは安心だ。だって誰しも通る道なのだから。

※「こころの科学」に掲載の書評を加筆修正しました。